ノベルバー2021

01.鍵
それが一体何を閉ざした鍵なのか、わたしは知らない。来歴を失った金の鍵。だから、わたしはこの鍵に新しく意味を与える。これはわたしの鍵。わたしを閉ざし、わたしを開くための鍵。あなたがこれを持っていて。いつかあなたがここに帰ってくる日、わたしがもう一度あなたに開かれるために。

02.屋上
上を見る。空になら落ちていける気がする。どこにも着地することなく、ずっとずっと落ちていけるだろう。下に、地面に向かうのは近すぎる。小旅行にもなりやしない。この狭い屋上から旅立つなら、もっと遠くへ行かないと気が済まない。青が薄く遠くなって、太陽の光も届かない宙の果てまで。

03.かぼちゃ
わたし、かぼちゃの馬車に乗ってきたの。そう笑う君が、僕の手をすり抜けていく。そんなことはない。君は中央線の快速に乗ってきたし、同じ電車で去っていく。それは魔法じゃない。けれど、ありもしない魔法が解けるとき、そこには何も残らない。ガラスの靴も、砕けたかぼちゃのひとかけも。

04.紙飛行機
誰かを乗せて、遠くへ行くことはできない。行く先を正しく定めることも、雨風に打ち克つこともできない。ただ、漂うように飛ぶばかり。それでも、ぴしりと折った紙の一枚に、人は時折、何かを託す。たった十歩の距離で墜ちてしまうかもしれないか弱い翼が、どうかあなたに届きますようにと。

05.秋灯
夜が澄んでいく季節に、ひとつ、橙色の灯をともす。そこでしか読めない本があり、そこでしか語れない言葉がある。ただこの秋にしかないもの。夏の暑さにも、冬の寒さにも耐えられない、透明な何か。薄く儚い玻璃のようなそれを、二人、淡い灯りの下にだけ感じている。静かに深い、夜の底で。

06.どんぐり
その一粒の中に、子栗鼠の夢が詰まっている。拾い集めてみるけれど、つやつやした表皮を割っても、夢を夢のまま味わえるわけではない。わたしたちはそれを取りこぼす。ころり、ころり、転がって逃げるどんぐり。わたしたちの手の中では芽吹くことのないもの。冬の向こう側にだけある春の夢。

07.引き潮
潮が引くまで、ずっとそこに立っていた。足首を洗っていた波は遠くなって、わたしは今、濡れた砂の上に立ち尽くしている。海でさえわたしを連れ去ってはくれない。あんなに開かれているのに、手を取って招いてはくれない。どこにもいけないまま、曇天の下、わたしはただ波の音を聞いている。

08.金木犀
わたしが死んだら、金木犀の下に埋めてちょうだい。埋めたら、すっかり忘れてしまってもいい。わたしは秋のほんの数日、あの甘い香りであなたを訪ねていく。なんにも思い出さなくたって、そこには確かにわたしがいる。もしも思い出してくれるなら、毎年、花が咲いて散るまでだけ、悲しんで。

09.神隠し
朝露の滴る土と、緑の匂い。右も左も、上も下もない場所。やさしい手のひらに似た温度がそっと満ちている。目を開いていた気がするのに、今は目を閉じているような気もする。ここはどこだったかな。誰かが呼んでいた。それは神様だったかな。そしたら神様、僕はもう帰らなくてもいいですか?

10.水中花
紛い物だ。綺麗なだけの嘘っぱちだ。枯れない花も、朽ちない花もない。腐らない花びらなんて、そんなのは偽物だ。彼女はそう言って駄々をこねる。水の中に佇む造花が美しかったら、紛い物でも、嘘っぱちでも偽物でも、僕は気にしない。培養槽の中で永遠に美しいの彼女のことも、同じように。

11.からりと
からりと笑ったその奥が、すっと冷めているのを知ってる。面倒くさくて機嫌が悪くて、でもそういうのを知られるのはもっと嫌で、だから笑うんだと知ってる。そういう君だから、好きだなんて絶対に言わないのも知ってる。でも、わたしを見る瞳の奥は少しだけ本当に笑っているのも、知ってる。

12.坂道
並んだ亡霊の持つ手燭だけが揺れている。星のない夜に、ひたり、ひたりとかすかな足音。どこにも行けないわたしたちは、終わりのない坂道を下り続ける。わたしたちの掲げる小さな灯は、生者にそっと告げる。わたしたちに心を寄せないで。あなたたちは、こちらへ来るにはまだ早いのだから。

13.うろこ雲
空一面に並んだ、鱗の数を数えている。数えきるころには戻ってくると言ったから。わたしはいつだって数えきれなくて、だからあなたが帰ってこない。去年も一昨年も数えていた。きっと来年も数えている。秋のたびに繰り返す。そうしている間は、あなたを待っていられる。忘れずにいられる。

14.裏腹
ゆっくりと歩きだす。一歩一歩、遠ざかっていく。ずっとここに留まりたい気持ち。裏腹に、わたしにしかできないことをしなければいけないという気持ち。強くなんてない。でも弱くはいたくない。だからこの道を歩き続ける。ゆっくりとでも。どこまででも。一人きりで、隣に誰もいなくても。

15.おやつ
甘い香り。午後三時のひと時、そっと指先に取り上げるチョコレートが、肌の温度に融けていく。綺麗な一粒が、ゆっくりとかたちを歪めていく。それを、きみのくちびるに放り込む。一日、ひとつ。昨日も、今日も。たぶん明日も。二人で午後三時を迎えられる限り。一緒にいられる、その限り。

16.水の
色もなく形もなく、けれどそのにおいがする。流れていくものの。あるいは、空から落ちてくるものの。水のにおい。水の、としか言えない。他に例えることはできない。咲く花の華やかさではない。香辛料の刺激でもない。人の肌の甘さでもない。捉えられない。ただ、水の。そのにおいだけが。

17.流星群
普段、星は空に磔になっている。罪を犯したわけでもないのに、生まれたときからずっと、ありもしない罰を受け続けている。けれども、時に星の降る日がある。たくさんの星が、空に尾を引いて落ちていく日が。それは、軛を逃れるための一瞬。命のすべてを燃やしても、そこから逃れるために。

18.旬
食べ物には、旬ってやつがあるんだという。だから、きみの肉にもきっとそれがある。早すぎも遅すぎもせず、たった一瞬、きみが一番美味しくなるときが。それを待っているんだ。たった一人しかいないきみを、けっして忘れられない一皿にするために。二度と分かたれない血と肉になるために。

19.クリーニング屋
人はどうして、あんなに汚れを嫌うのかしら。綺麗でいたいと思うのかしら。服の染み抜きは簡単よ。でも、心にこびりついたものを上手く綺麗にするのは難しい。心をクリーニング屋に預けるわけにはいかないもの。どれだけ華やかに着飾っても、変えられない。変えられないのよ、残念ながら。

20.祭りのあと
祭のあとは帰るだけ。暗い夜道の足元に、蹴った小石がからりと鳴った。赤い提灯、人の声。それが背中に遠ざかる。渦巻く熱気が融けていく。祭は終わり。もう終わり。あとは明日にまるっと投げて、夢も見ないで眠ればよろしい。わたしもきみも、背後は見ない。呑まれてしまわぬそのために。

21.缶詰
この狭い場所は、内側からは開けない。だからわたしは、小さく丸くなって待っている。いつかこの閉じ合わされた蓋をこじ開けて、わたしを望んでくれる誰かのことを。きっといつかは。必ず、誰かが。わたしの缶詰を開いて、そして、わたしをぺろりと平らげる。それを、何年でも待っている。

22.泣き笑い
涙なんて、あくびのときにだけあればいい。あとは、玉ねぎ刻んだときとかにはあってもいい。嬉しいときに、泣いたりしない。悲しいときにも、泣きたかない。そう思って生きてきたのに、どうしようもないことってあるんだな。あんたが生きて帰ってきたんだから、仕方がねえかな。おかえり。

23.レシピ
レシピ自体は、秘密でもなんでもない。書かれた通りに出汁をとり、塩を計って胡椒を振って、ハーブを多少。なのにいつも、ばあさんのとは同じにならない。火加減。時間。あっちを変えて、こっちを変えて。なのにばあさんは一発でいつも同じ味。やっぱりあのババア、魔女なんじゃないのか?

24.月虹
夜に七色輝く日、あなたは死んでいくでしょう。月虹の道が、遠いどこかへあなたを連れてゆく。それが一体どんなところかは、わたしは知りません。天国。地獄。そんな言葉が語るどこか。陽の光にできる虹では眩しすぎる。深い夜空にしらじらと儚い月虹だけが、あなたの行く先を知っている。

25.ステッキ
ステッキ一本あれば、どこでだって仕事はできる。コインひとつ、ハンカチ一枚でもいい。嘘っぱちと呼びたきゃ呼んでもいい。種も仕掛けもありゃするが、見破れなければそれは魔法だ。きっとあんたは見破れない。あんたは夢を見たがってる。だからおれなんかに会いに来るんだ。知ってるぜ。

26.対価
わたしの持っているのは、赤い薔薇の一輪だとか、青い蝶のひと翅だとか、そんなものです。金銀も宝石もございません。わたしには、小さなお庭がひとつきり。ほかに支払えるもの、対価と呼べるようなものは、なんにも持っておりません。それでもあなた、わたしを愛しいと言ってくださるの?

27.ほろほろ
せめてもっと声を上げて泣いてくれないか。そんなふうに黙ってほろほろ泣かれたら、とんでもなく悪いことをしたみたいな気になるだろう。ぼくはちゃんと戻ってきたよ。まあ、なかなかうまくはいかなかったけれども、それでも、一応。それで満足してくれないか。その泣き方、やめろったら。

28.隙間
カーテンの左右がわかれるところ、クローゼットの閉まりきっていない少し、冷蔵庫と壁の間。どこにでも。あなたの呼吸を、仄かに感じる。その隙間から、ふぅと漏れるあたたかな吐息。音には満たない空気の流れ。あなたがいなくなって五年。幻のように、わたしの持つ隙間を訪い続けるもの。

29.地下一階
ここって、よく考えたら地面の下にあるのよね。だからどうってわけじゃないんだけど。地下鉄とかさ、ああいう思いっきり深い場所にあるものと違って、誰かの家の地下一階って、なんとなく中途半端な感じがするなって。そう、……お墓みたいな。でも、頑張ったら自分で這い出ていけそうな。

30.はなむけ
きみに最後、ひとつだけ贈れるとしたら、何を選べばいいだろう。写真や、指輪や、愛の言葉。さようならのその時、きみに、何を残せるだろう。そう考えていたけれど、ぼくは結局、ただ、またね、と言った。いつかきみが戻ってこられるように、ぼくの隣を空けておく。それが、きみへの餞だ。

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