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まとめ9【え、この人も元GS!?】+余話

ジュリーこと沢田研二さんの経歴やあれやこれやを徒然なるままにつらつらと綴って参ります。細々とやっていきます。

Xで連載(?)しているネタのまとめです。
よろしくどうぞ。

#沢田研二  #まだまだ沢田研二

【え、この人も元GS!?】+余話

グループ・サウンズは前々回ご紹介したグループだけではありません。
僅か1-2年の内に100以上のバンドがデビューしたと言われており、中にはGS以後に活躍を遂げた著名人もいます。
それは芸能界の表方、つまり歌手・タレント・俳優といった人々と。
裏方、つまり作曲家やスタジオミュージシャン、更に芸能プロダクションやレコーディングスタッフといった人々。

ここでは、多彩な才能を発揮した人々のうち【GS出身】という印象が薄い(かもしれない)方々を御紹介します。

……あと、終盤には「GS余話」としてGS周り(?)の小ネタ集を。

寺尾聰

父は俳優の宇野重吉。ソロ歌手として『ルビーの指環』が大ヒット、また俳優としても著名な彼ですが、ザ・サベージのベース&ボーカルでした。

バンド時代に『いつまでもいつまでも』『この手のひらに愛を』がヒットしています。また脱退後にザ・ホワイト・キックスに加入しました。

ザ・ホワイト・キックスは短命に終わり、父の紹介で石原裕次郎と出会ったことから俳優としてのキャリアがスタート。並行する音楽活動もシングル、アルバムともヒット作を生みましたが、そのキャリアの出発点はGSだったわけです。

バンド時代はベース兼ボーカル 寺尾聰

ザ・サベージ

主要メンバー
奥島吉雄(Gu.&Vo.)
林廉吉(Gu.)
寺尾聰(Ba.&Vo.)
渡辺純一(Dr.)

ザ・ホワイト・キックス

主要メンバー
三保敬太郎(Key.)
森野多恵子(Vo.)
林廉吉(Gu.)
寺尾聰(Ba.)
河手政次(Dr.)
志村康夫(Fl.)

右から二番目が寺尾聰 ザ・サベージ
唯一のシングルはザ・ハプニングス・フォーとの競作 ザ・ホワイト・キックス

安岡力也

コワモテの俳優で鳴らした彼も、元を辿れば由緒正しい(?)アイドルでした。シャープ・ホークスは歌って踊れるハーフのグループとして売り出されました(カップスと違って本当に全員が混血でした)。安岡は父がイタリア人、母が日本人です。
初期シャープ・ホークスには加古幸子、後のサリー・メイもメンバーだったりしましたが、彼女はデビュー前に脱退。グループはGSブームを受けてザ・シャープ・ホークスとしてバンド編成に。しかしバンド活動は短期間で終息、安岡のみを残した安岡力也とシャープ・ホークスへと再編成されますが同様に短命に終わりました。

安岡はその強面を活かし(?)、当時隆盛を極めていた東映の不良映画に出演します。その後は俳優として活躍、梅宮辰夫、千葉真一、松田優作らと親交を深めました。
音楽活動も『オレたちひょうきん族』から生まれた『ホタテのロックン・ロール』という名曲(?)を残した他、内田裕也主宰の「ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル」の1990年代常連出演者でした。

れっきとした元アイドル 安岡力也
バンド編成唯一のシングル ザ・シャープ・ホークス

ザ・シャープ・ホークス

主要メンバー(バンド期)
野沢裕二(Dr.)
安岡力也(Vo.)
ジミー・レノン(Vo.)
鈴木忠男(Gu.)
美島哲也(Gu.)
秋月克衛(Ba.)

尾崎紀世彦

中学時代からハワイアン・バンドで活動し、1965年にはジミー時田とマウンテン・プレイボーイズに加入。このバンドは1957年から長く活動しましたが、歴代メンバーには尾崎以外にも碇矢長一(後にザ・ドリフターズのいかりや長介)、寺内タケシ(後に寺内タケシとブルー・ジーンズ)、東理夫(後にエッセイスト)、トビー門口(後に俳優)、藤井三雄(スチールギターのファゼィ創業者)といった錚々たる顔触れが並んでいます。

1967年にザ・ワンダースを結成、契約の都合で他社でジ・エコーズと名乗った活動もありました。バンド自体は人気を博すには至りませんでしたが、メンバーの栗敏夫(本名:小栗俊雄。日音のディレクター)、朝紘一(後の朝コータロー)もそれぞれ活躍しました。

解散後にソロに転向。代表曲『また逢う日まで』は元はズー・ニー・ヴーの『ひとりの悲しみ』という曲でしたが、リメイクされ大ヒットとなりました。

彫りの深い顔は日英クォーターの血 尾崎紀世彦

ザ・ワンダース(ジ・エコーズ)

主要メンバー
栗敏夫(Vo.&Gu,&Dr.)
朝紘一(Vo.&Ba.)
尾崎紀世彦(Vo.&Gu.)

※契約の問題で『ウルトラセブンの歌』等はジ・エコーズ名義

解散後も交流が深かった ザ・ワンダース

湯原昌幸

軽妙なお喋りや演歌で知られる彼にもアイドル(?)時代があったんですねぇ。というより、彼が在籍したザ・スウィング・ウエストはその長い活動期間(1957~1970)で大勢のメンバーが出入りしました。
解散後はソロに転向、元はバンドのレパートリーだった『雨のバラード』が大ヒットしますが、人気は長続きしませんでした。

そこから持ち前の話術を活かしタレント、コメディアンとして成功し、マルチタレントのパイオニアに。音楽、タレントそれぞれの活動を両立しながら活躍を続けています。

堺正章と並ぶ2大GSマルチタレント(?) 湯原昌幸

堀威夫

ホリプロ創業者。スウィング・ウエスト創設者にして初代リーダーです。1960年に脱退しプロモーターとなったのでGS扱いするには無理がありますが、番外篇として。
脱退後はマネジメント業務に携わり、東洋企画を経て1960年に堀プロダクション、後にホリプロダクションを創業。「水商売」としての長年の慣習だった芸能界の不健全な経営を改め、会計の透明化に尽力しました。そして1989年に芸能プロダクションとしては初めての株式公開を実施、2002年には東証1部(現:東証プライム)上場を達成しました(ただし経営方針の転換から2012年に上場廃止、現在は非公開)。

ホリプロを築き上げた 堀威夫

ザ・スウィング・ウエスト
1957年結成、当時はロカビリーバンドとして出発しました。創立メンバーは堀威夫の外に寺本圭一、田辺昭知らでした。ブームの隆盛に沿ってメンバーも入れ替わり、中盤はエレキブームを受けてエレキバンド、後半はグループ・サウンズザ・スウィング・ウエストとなります。
歴代メンバーには湯原昌幸の他にも守屋浩、佐川満男、植田嘉靖(『雨のバラード』作詞作曲)、喜多村次郎(後にザ・カーナビーツ)……といった顔触れが並んでいます。

スウィング・ウエスト ロカビリー時代(ボーカルは守屋浩)
ザ・スウィング・ウエスト GS時代(ボーカルは湯原昌幸)

大石吾朗

本名:輿石秀之。やはり話術に長けた彼も、デビューは本名で寺内タケシとバニーズのセカンドギタリスト兼ボーカルとしてでした。このバンドはブルー・ジーンズを脱退した寺内によって結成されたバンドで、後にヒロシ&キーボーとして『3年目の浮気』をヒットさせる黒沢博もメンバーでした。

脱退後にGSジ・エドワーズに参加しましたが、シングル2枚の短い活動でヒットには至りませんでした。解散後に現在の芸名でパーソナリティーに転向し、ラジオ、テレビで長きに亘って活躍。俳優としても多くのドラマ・映画に出演しています。

話術と歌とギターに優れた 大石吾朗

ジ・エドワーズ

主要メンバー
輿石秀之(Gu.&Vo.)
麻紀タケシ(Key.&Vo.)
酒井康男(Dr.)
榊原さとし(Gu.)
早川昇(Ba.)

※榊原は本名の秦野嘉王でオフィスAtoZの設立者として知られる。

穂口雄右

キャンディーズの名曲を手掛けたこの方もGS出身。彼のアウト・キャストも錚々たる面々が顔を揃えました。
中学時代からギターとピアノを始め、プロとしての初仕事はジャニーズのバックバンドであるジャニーズ・ジュニアの一員としてでした。1966年にアウト・キャスト結成に参加しますが間もなく脱退。その後はスタジオミュージシャンを経て作・編曲家として活動、音楽学校も経営しました。

音楽著作権の在り方についてJASRACの方針に強い違和感を覚え、JASRACを脱退して闘っています。

キャンディーズ育ての親 穂口雄右

松崎澄夫

キャンディーズのプロデューサー、アミューズ社長。かつては「轟健二」の芸名でアウト・キャストと派生したアダムスのメンバーでした。

松崎はバンドに参加する前から、専属ミュージシャンとしてナベプロと契約していました。その際、東京音楽学院(ナベプロが設立した音楽学校)で出会った3人の女の子たちに可能性を見出し、自ら志願してプロデューサーに就任。彼女たちこそがキャンディーズです。そして同じくキャンディーズに関心を持った穂口雄右にバンド時代の縁もあって楽曲を依頼、グループをトップアイドルへと導きました。

その後はキャンディーズのマネージャーだった大里洋吉が設立したアミューズに招かれ、社長・副会長を務めました。

ナベプロの渡辺晋、田辺エージェンシーの田辺昭知、ホリプロの堀威夫らもそうですが、芸能プロ経営者やプロデューサーはミュージシャン上りが多いですね。

穂口と共にキャンディーズを育てた 松崎澄夫

藤田浩一

トライアングル・プロダクションの創業者、オメガトライブのプロデューサー。穂口、轟(松崎)らと共にアウト・キャストのメンバーでした。

バンド時代は作詞・作曲を手掛けた自身の作品『友達になろう』でデビューを遂げました。しかし短期間で脱退、新たにThe Loveを結成しますがいずれもヒットには至りませんでした。
The Love解散後はムッシュかまやつを皮切りに音楽制作やマネージメントに携わるようになり、1975年にトライアングル・プロダクションを設立。

かまやつの紹介で出会った5人組バンドのレイジーを元ザ・タイガースの森本太郎と共同プロデュース、GS関係者が多くかかわったアイドルロックバンドとして人気を博します。なおレイジーはアイドル路線に違和感を抱いたメンバーの意志でヘヴィー・メタル路線に転換した後に解散。高崎晃と樋口宗孝はLOUDNESS、影山ヒロノブはアニソン歌手としていずれも国際的に高い評価を得ました。

レイジーの他には角松敏生オメガトライブをプロデュース。彼らに共通する都会的で洗練されたシティ・ポップはトライアングル・サウンドと呼ばれ一時代を画しました。特にオメガトライブは最終決定権者として活動の全般に関与、歴代プロジェクトの全てを統括しました。

トライアングル・サウンド生みの親 藤田浩一

アウト・キャストは当初、水谷と大野が中心となってロカビリーを演奏するインストバンドとして出発、ビートルズらの流行を受けボーカルを加えたデビュー時の陣容を揃えます。バンドとしては短期間でヒットも出ずに終わりますが、スタジオミュージシャン、音楽講師、作曲家、プロデューサー……と解散後に音楽業界で活躍するメンバーが多数在籍した、不遇の(?)技巧派バンドです。

アウト・キャスト

主要メンバー
水谷淳(Gu.)
大野良二(Ba.)
轟健二(Vo.&Fl.)
藤田浩一(Gu.)
穂口雄右(Key.)
中沢啓光(Dr.)

※解散後、中沢は家業を継いで和太鼓奏者となり、本名の西川啓光として数々の演歌、スーパー歌舞伎、劇団四季作品等に参加。

知名度は低いが凄腕揃い アウト・キャスト

水谷公生

ギタリスト、作・編曲家として活躍のこの方もアウト・キャストアダムスのメンバーでした。アウト・キャスト時代は「水谷淳」名義ですが、アダムス以降は本名の公生を名乗っています。

短期間に終わった両バンドでの活動後はソロギタリストとしてニュー・ロックの黎明期に多くのセッションに参加しました。その後はギタリスト、編曲家として1980年代の歌謡曲に多くの足跡を残しました。

和製フランク・ザッパ 水谷公生

アダムス
アウト・キャストを脱退した水谷、轟らによって結成。CBSソニー設立第1弾アーティストとしてザ・バロネッツと同時にデビューしました。
バンド名の由来でもある『旧約聖書』がデビュー曲のタイトルです。GSのロマンティシズムは遂に神の領域に(笑)クラシカルかつ荘厳な楽曲でしたが、大きなヒットには至らず。その後の活動も短期間で解散しました。

アダムス

主要メンバー
水谷公生(Gu.)
轟健二(Vo.)
千原秀明(Ba.)
川上幸夫(Dr.)
土谷守(Key.)

※千原は後のスタジオミュージシャン武部秀明

壮大なスケールのデビュー曲 アダムス

芹澤廣明

元はブルー・コメッツが独立した後の尾藤イサオのバックバンド、ザ・バロンのメンバーでした。独立後はNHKの『ステージ101』オーディションに合格し、バンド全体でヤング101に参加しました。活動期間は数年に及びますが、バンド単独の作品はシングル1枚のみ。この時期の名義は河内広明。
バンドのデビュー作は鍵山珠里とのコラボで「ジュリーとバロン」名義による『ブルー・ロンサム・ドリーム』ですが、この曲は作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童コンビの初作品で両者の作家デビュー作品となりました。

解散後は本名の現名義で作曲家に転向。中森明菜の『少女A』やチェッカーズの初期作品(プロデューサー兼任)、アニメ『タッチ』主題歌や『アニメじゃない -夢を忘れた古い地球人よ-』(『機動戦士ガンダムZZ』主題歌)『何かいい事きっとある』(映画『ドラえもん のび太とブリキの迷宮』主題歌)等、アイドルソングやアニメソングにヒット曲を連発しました。

初期チェッカーズを育てた 芹澤廣明

ザ・バロン

主要メンバー
清須邦義(Vo.&Gu.)
河内広明(Gu.&Vo.)
若子内悦郎(Ba.&Vo.)
宗台春男(Dr.)

※解散後、清須は松山千春、若子内は谷村新司、浜田省吾、CHAGE and ASKA等のサポートで活動。

ジュリーとバロン名義のデビュー曲は阿木/宇崎コンビの誕生作 ザ・バロン

馬飼野康二

父:馬飼野昇、兄:馬飼野俊一の音楽一家に生まれました。西郷輝彦に見出されてデビューしたブルー・シャルムでキーボードを担当。当時は「馬飼野睦」という芸名でした。
解散後は西城秀樹『チャンスは一度』を皮切りに編曲家として活動、作曲家としても同じ西城秀樹の『傷だらけのローラ』、松崎しげる『愛のメモリー』、和田アキ子『古い日記』、光GENJI『勇気100%』、嵐『A・RA・SHI』(いずれも編曲兼任)等のヒット曲を手がけました。

また男闘呼組『ロックよ、静かに流れよ~Crossin' Heart~』や堂本剛『ひとりじゃない』等の作・編曲を担当したMark Davis、石川秀美『Everynight』『ドレスの下の狂詩曲』等の作・編曲家Michael Korgenは彼の偽名です。

また映画『愛と誠』、ドラマ『風の中のあいつ』、『教師びんびん物語』、アニメ『ベルサイユのばら』、ぴえろ魔法少女シリーズ等の音楽を担当。
小学生だった自身の娘たちが愛読する漫画を自らも気に入り、アニメ化に向けて奔走した『落第忍者乱太郎』(アニメ『忍たま乱太郎』)では、音楽や主題歌を担当するにとどまらず、同作に登場する魔界之小路のモデルとなりました。

アニメ『忍たま乱太郎』生みの親 馬飼野康二

ブルー・シャルム

主要メンバー
桑原一郎(Vo.)
泉八汐(Gu.)
馬飼野睦(Key.)
松浦圭裕(Ba.)
春城伸彦(Dr.)

※春城は後にジャニーズエンタテイメント、スマイルカンパニー代表取締役を務めた小杉理宇造

見た目も曲もムード歌謡 ブルー・シャルム

つのだ☆ひろ

GS出身者というにはちょっと無理がありますが、後期ジャックスのメンバーでした。ジャックスのスタッフだった高橋照幸の休みの国にも参加しています。
実家は新宿区十二社(現:西新宿6丁目)の理髪店で彼は8人兄弟の末っ子。
漫画家のつのだじろうの弟であることは意外と知られてなかったり。

中学生でドラムを始め、高校時代に富樫雅彦の薫陶を受けます。ジャズドラマーとして活動しますが、初期メンバーが抜けたジャックスに加入。五つの赤い風船や赤い鳥、岡林信康、加藤登紀子などのフォーク、成毛滋とのストロベリー・パスと後身のフライド・エッグや最初期サディスティック・ミカ・バンド等のニュー・ロック等々、数多くのセッションに参加。自身が歌唱する『メリー・ジェーン』も大ヒットしました。

なお清水健太郎『失恋レストラン』『帰らない』、南沙織『街角のラブソング』等の作詞・作曲、田原俊彦『騎士道』の作曲者でもあります。

いつも笑顔 つのだ☆ひろ

柳ジョージ

柳ジョージ&レイニーウッドで渋い声と泣きのギターを響かせた彼も、プロとしてのキャリアのスタートはケネス伊東離脱後の後期ザ・ゴールデン・カップスのベーシストとしてでした。
ザ・ベンチャーズの影響でギターを始め、エリック・クラプトンに学んだブルージーなサウンドを身に付けます。ザ・ゴールデン・カップス以外にストロベリー・パスのアルバムにも参加した後、自身のバンド柳ジョージ&レイニーウッドを結成。解散後はソロで活動しました。

渋い声に泣きのギター 柳ジョージ

山口冨士夫

京都出身の伝説的ロックバンド村八分ギタリスト。他に裸のラリーズに一時在籍したりRCサクセションの『COVERS』に参加したり、生きながらにして伝説的存在でした。

イギリス人の父と日本人の母の間に生まれます。3歳で母に孤児院に預けられた場面が最も古い記憶で、それ以後は両親との再会は叶いませんでした。
「冨士夫」の名は施設の職員が命名したもので「苗字に山が付くから名前が冨士」、「外見が一瞥して分かるハーフなので純日本風の名前」といった謂われがあるとされます。
施設のラジオで糸居五郎に熱中して音楽に目覚め、ビートルズを聴いてロックバンドを志向します。幼馴染で結成したモンスターズを母体としたザ・ダイナマイツでデビュー。ザ・モップス、ザ・サニー・ファイブとの同時デビューでした。シングル5枚、アルバム1枚はいずれも大きなヒットとはなりませんでしたが、デビュー曲『トンネル天国』のドライブ感溢れるギターサウンドは後年の片鱗が伺えます。

バンド解散後は京都に移り、チャー坊こと柴田和志らと村八分を結成。こちらも短期間の活動でしたが、破壊的なサウンドと過激な歌詞で解散後に評価が向上し、世界に先駆けたパンクロックとも言われます。
村八分は1971年3月20日第1回「MOJO WEST」というイベントに出演。これは村八分とPYGの対バンで共にデビューライブという正に歴史的なイベントでした。PYGについては後にご紹介します。

PYGと村八分がデビュー 第1回MOJO WEST(1971年3月20日)

会場は京都大学吉田キャンパスの敷地内にある京都大学西部講堂
学生運動の余熱で学生団体による自治で運営され、商業主義を排した自主的で自由な空気を貴ぶ場として知られる施設です。後に多くの音楽イベント、演劇が開催され「ここに出れば売れる」という伝説が生れる程、高名なアーティストが出演しています。

フランク・ザッパが「世界一美しく、クレイジーなステージ」と語った 京都大学西部講堂

その後は自身のティアドロップスの他、裸のラリーズ、シーナ&ザ・ロケッツ、RCサクセション、ボ・ガンボスのライブやレコーディングに参加し、後年はソロで活動しました。

福生駅前のタクシー乗り場で、酔ったアメリカ人男性が別の男性を殴り付けている場面に出くわし、止めに入ったところ米人男性に殴られ昏倒、その際に受けた傷が元で亡くなりました。

衝撃的なギターとボーカル 山口冨士夫

ザ・ダイナマイツ

主要メンバー
瀬川洋(Vo.&Gu.)
山口冨士夫(Gu.&Vo.)
吉田博(Ba.&Vo.)
大木啓造(Gu.)
野村光朗(Dr.)

※瀬川のソロ活動では四人囃子の森園勝敏、村八分の上原裕らが参加。

抜群のテクニックと疾走感あふれるギターサウンド ザ・ダイナマイツ

PANTA

こちらも伝説の頭脳警察ボーカル&ギター。本名:中村治雄。
マイナーGSザ・モージョに一時在籍してました(正式メンバーとしてカウントされないことも)。
その後、自身のバンドとしてTOSHI(石塚俊明)と頭脳警察を結成、以後PANTAの名で活動します。
この名前については長く「古代ギリシャのヘラクレイトスが唱えたパンタ・レイ(万物流転)に由来する」と言われてきましたが、後年になって「いつもパンタロンばかり履いていたから」と明かされています。

頭脳警察は新左翼運動との関りが深く、政治的なメッセージを強く打ち出した1stアルバム『頭脳警察1』は発売禁止になりました。日本幻野祭に出演する等した後に解散しましたが、その後も断続的に再始動しました。
内田裕也が歌う『コミック雑誌なんか要らない』は頭脳警察の曲です。

頭脳警察以外ではPANT&HAL、陽炎、響といったユニット及びソロで活動。制服向上委員会、月蝕歌劇団、荻野目洋子、横道坊主らのプロデュース、チェッカーズ、沢田研二らへ楽曲提供も行いました。『稲村ジェーン』を機に俳優としてもいくつかの映画に出演。
日本赤軍の最高指導者・重信房子との交友から生まれたアコースティック・アルバムも発表しました。

最晩年には鮎川誠率いるシーナ&ザ・ロケッツとの対バンが予定されていましたが鮎川、PANTA双方の病で企画は延期、実現を果たせぬまま両名とも世を去りました。

日本語ロックのパイオニアの一人 PANTA

番外篇

長戸大幸

ビーインググループ(現:B ZONE)創業者。
厳密にはGSとは呼べませんがThe Sounds Of Weedsというアマチュアバンドで後にザ・カーナビーツに加入するポール岡田と仲間でした。

高校、大学時代は自身がメンバーとしてバンドに参加しますが、妹尾隆一郎のマネージャーとなったことから裏方に。阿久悠らが参加したオフィス・トゥー・ワンに入社し月光恵亮と知遇を得ます。織田哲郎や氷室京介が在籍したことで事後的に有名になったスピニッヂ・パワーをプロデュースした後、独立して織田、月光らとビーイングを設立。当初はオフィス・トゥー・ワンと阿久が出資していました。

初期BOØWYやLOUDNESSを皮切りにプロデュース業を本格化、1990年代前半に数多くのミリオンヒットを放つアーティストをプロデュースし「ビーイングブーム」と呼ばれました。主なプロデュースにB'z、WANDS、ZARD、大黒摩季、T-BOLAN、DEEN、ZYYG、FIELD OF VIEW、倉木麻衣、小松未歩、GARNET CROW等。

一時的に音楽プロデュースを退いたことを機に、音楽で得た資産を不動産投資に活用。東京の代官山、大阪の北堀江の再開発を主導し音楽を上回る資産を築きます。近年までほとんど表に出ることがなく顔写真もあまり出回りませんでしたが、最近はばんばひろふみとのラジオ番組やインタビューに登場し往時の裏話を忌憚なく語っています。また六麓荘の住人でもあります。

一時代を築いたプロデューサー 長戸大幸
 上段右が長戸、中段が岡田 The Sounds Of Weeds

なおビーインググループには複数のレコード会社が存在しましたが、その内の一つB-Gram RECORDSの代表取締役社長はヴィレッジ・シンガーズのリーダー小松久でした。
小松は日本コロムビア、CBSソニーでディレクターを務めていましたが、TUBEに携わったことを機にビーイングへ移籍、B.B.QUEENS『踊るポンポコリン』やZARD『揺れる想い』『OH MY LOVE』等を担当しました。
退職後はヴィレッジ・シンガーズを再結成した他、GS関係者とのセッションに多く参加しています。

GSとビーイングに携わった 小松久

長戸大幸は多くのバンドをプロデュースしますが、オーディションで集めた面識のないメンバーを組ませる手法を好んで使いました。プロダクション主導のGSの手法に学んだのかもしれません。

長戸がプロデュースし小松がディレクターを務めた女性3人組Mi-Keのデビュー曲『想い出の九十九里浜』はGSのパロディソングです。哀調のメロディー、ギター中心のバンドサウンド、多重コーラス、そして何処かで聞いたフレーズが頻出する歌詞……。

もっとも作・編曲の織田哲郎はGSに思い入れがなく、曲作りに苦労したそうですが。

GSファンの郷愁をくすぐる? 『想い出の九十九里浜』
途中からGS尽くし 『想い出の九十九里浜』

彼女たちのファーストアルバム『想い出のG.S.九十九里浜』はGSの名曲が数多くカバーされ、オリジナルのメンバーも多数参加しました。

衣装がいかにもGS Mi-Ke『想い出のG.S.九十九里浜』
GSのカバーと豪華ゲスト Mi-Ke『想い出のG.S.九十九里浜』

※『エメラルドの伝説』中盤から男性ボーカルが入りますが、誰の声かは明記されていません。萩原健一とする記述も多いのですが、彼が亡くなった際に宇徳敬子(Mi-Keのリードボーカル)が書いた追悼ブログを見ても
コラボレーションしたようには思えませんので一応不明としておきます。
https://ameblo.jp/uk-rainbow-voice/entry-12450507671.html
コメント欄に「ゲストボーカルは森友嵐士(T-BOLANボーカリスト)」と記載されていました。どちらにしてもショーケンではないようです。

余話

THE TIMERS

ついでにGS……というよりザ・タイガースのパロディもご紹介。
その名もザ・タイマーズ!!

THE TIMERS

ZERRY(Vo.&Gu.)
TOPPI(Gu.)
BOBBY(Ba.)
PAH(Dr.)

ゼリー、トッピ、ボビー、パー……名前はモロですね。

何処かで見た人たち? THE TIMERS

このザ・タイマーズは「土木作業員が現場で遊んでてて出来たバンド」という設定ですが……。
外見は作業員を装ってますが、ヘルメットに覆面はGSと同時代のムーブメントである学生運動の扮装ですね。

しかしザ・タイマーズが歌う歌はGSとはかけ離れたスゴいもの!
『偽善者』『ロックン仁義』『覚醒剤音頭』『あこがれの北朝鮮』……。

『宗教ロック』は今の時代にこそ突き刺さる名曲!?
実はバンド名もタイマーではなく、「ー」を外した単語(以下自主規制)

今こそ聴くべき名曲 『宗教ロック』

正体をお伝えすると、彼らは忌野清志郎たちによる覆面バンドでした(設定上はそっくりさん)。どうしてこんなバンドが誕生したかと言うと……。

1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故は世界中に衝撃を与え、原発を巡る議論が沸騰しました。
RCサクセションは1988年にカバーアルバム『COVERS』を制作しますが、その中で反原発を歌っていました。彼らの所属する東芝EMIは、親会社が原発事業を推進する(そして後に破綻する)東芝だった為、このアルバムの発売を中止します。当時「素晴しすぎて発売出来ません」という発売中止の広告が掲載されました。

衝撃作 RCサクセション『COVERS』

結局、RCの古巣だったキティレコードからリリースされる運びとなり、ここまでの話題性もあって大ヒットしました。アルバム自体、多くのゲストミュージシャンを交えた豪華で充実した内容となっています。

しかし今度はFM東京を始めとしたラジオ局で『COVERS』楽曲の放送を自粛する動きが起こります。

こうした経緯に怒りを覚え抗議の音楽ゲリラ活動を志向した清志郎ですが、RCメンバーの賛同を得られなかった為、新たに結成したのがこのTHE TIMERSです。楽曲はありとあらゆる権威、権力をクソミソに罵倒し倒す内容と、エンターテインメント精神溢れるパフォーマンスで構成されています。憤懣やる方ない怒りの中にも笑いを忘れない、キヨシローのROCK魂が炸裂したバンドでした。

怒りと笑いとロックンロール ザ・タイマーズ

ちなみに清志郎が日本語詞を付けた『デイドリーム・ビリーバー』(オリジナルはザ・モンキーズ)はこのバンドとしてのレパートリーでした。今はこのカバー(つまりカバーのカバー)も多数あります。

ザ・タイマーズ

忌野清志郎(Vo.&Gu.)
三宅伸治(Gu.)
川上剛(Ba.)
杉山章二丸(Dr.)

番外篇

映画『GSワンダーランド』(2008)

もう一つ、GSの「時代の空気」をよく感じさせる映画を。

『GSワンダーランド』(2008)

監督:本田隆一/脚本:本田隆一・永森裕二
出演:栗山千明/石田卓也/水嶋ヒロ/浅利陽介

GSの空気が満載 映画『GSワンダーランド』

物語は1968年、架空のバンド「ザ・タイツメン」がスターダムにのし上がる様を描いたコメディですが、その一番人気メンバーが実は女の子だった……という物語。

栗山千明が男の子としてGSに 『GSワンダーランド』

GSにはザ・タイガースのジュリーやオックスの赤松愛のように「女の子みたい」と言われた美少年はいましたが、本当に少女(自分)がその中にいたら……GSファンにとって永遠の夢(妄想?)が叶った作品です。

劇中の栗山千明はキーボード担当で、マッシュルームカットと合わせて実際に赤松愛を意識したキャラのようです。

女の子のような赤松愛(右)と本当に女の子の栗山千明(左)

本田隆一監督は1974年生れ、GSを肌で知る年代ではないのですが……。
ご親類がマイナーGSのメンバーだったそうで、幼時からGSを相当聴き込んで来たそうです。

映画にもGS関係者が多数出演、岸部一徳も「最近ザ・タイガースってのが人気なんだって?」と事務所社長のチョイ役で出てきます。

かなりのGSマニアでもある 本田隆一監督

音楽のサリー久保田は1980年代のネオGSブームの筆頭格だったザ・ファントムギフトのベーシスト。映画オリジナルソングは作詞:橋本淳/作曲:筒美京平。GSを知り抜いた方々が作る限りなくGSっぽい映画です。

ネオGSザ・ファントムギフトのベーシスト サリー久保田
限りなくGSっぽい主題歌『海岸線のホテル』

ちなみに劇中、日本劇場(日劇)が登場しますがその外観はもちろんCG。しかし当時の技術で観ても異様にリアル。

それと言うのも本田監督が「これがウソなら全てウソになる」とこだわり抜いたからだとか。ぜひご鑑賞を。

異様にリアルなCG日劇 映画『GSワンダーランド』

『サザエさん』

最後に「ジュリーは女の子のような美少年」がいかに国民的コンセンサスを得ていたかを語るエビデンスを。

1968年3月2日は『君だけに愛を』が出て2ヶ月、ザ・タイガース人気が頂点に達する頃!
ワカメは小学1年なのでちょっとマセてたかもしれません(笑)

波平さんにはジュリーが少女に見えた 『サザエさん』


……と言うことで、GSについて、GSの楽曲を手掛けた作家について、GSメンバーだった人々について、ついでにGS小ネタ集について、つらつらと綴って参りました。つらつら過ぎて12,000字を越えてしまいました(汗)

次回から再び主題に戻りまして、沢田研二さんの、ザ・タイガースの歴史を綴ってまいります。やはりつらつらと。


(続く)



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