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まとめ7【GSアラカルト】

ジュリーこと沢田研二さんの経歴やあれやこれやを徒然なるままにつらつらと綴って参ります。細々とやっていきます。

Xで連載(?)しているネタのまとめです。
よろしくどうぞ。

#沢田研二  #まだまだ沢田研二

【GSアラカルト】

ここでは代表的なGSを紹介していきます。

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

GSの長老……長兄格。略称ブルコメ。
尾藤イサオやザ・ピーナッツのバックバンドも務めた実力派集団。
髪が短く落ち着いた外見で紅白に出場できた唯一のGS※。またビートルズ来日公演の前座を務めたバンドの1つです。

※1989(平成元)年の第40回紅白歌合戦に「昭和を振り返る」企画としてザ・タイガースが出場しています。

結成からしばらくは米軍キャンプを回って腕を磨き、ロカビリーを中心に技術を培います。「日本一の伴奏グループ」を目指して多くの歌手のレコーディング、コンサートに同行。一旦解散後に再構成され、1965年に黄金時代のラインナップが揃います。

時期を同じくして「これからは自分で歌う日本一のバンドになろう」と方針を転換、サックス、フルートの井上忠夫をリードボーカルに据えて人気と実力を兼ね備えたバンドへと成長しました。まとめ4で紹介した美空ひばりの『真赤な太陽』は彼らのバックバンドとしての最後期の仕事です。
前回ご紹介したロカビリーからGSまでの変遷を自身で体現したバンドです。

技術力の高さと紳士然としたイメージの良さで、1965年にザ・ピーナッツのバックバンドとして、1966~1968年まで単独で3年連続NHK紅白歌合戦に出場。ただし落ち着いた佇まいは他のGSに比して高齢であったこと、単純に長髪が似合わなかったこと、によります。GSブームのド真ん中では長髪のカツラを被ってステージに臨んだこともあったそうですが、ファンには逆に不評だったとか。GSファンからは「ジジコメ」なんて蔑称で呼ばれたりも。
実はアイドルになりたかった?

GS最古参 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

主要メンバー
ジャッキー吉川(Dr.)
井上忠夫(Vo.&Fl.)
高橋健二(Gu.)
三原綱木(Gu.)
小田啓義(Key.)
白鳥健二(Ba.)

代表曲
青い瞳/ブルー・シャトウ/マリアの泉/さよならのあとで

その後
井上:作曲家の井上大輔
三原:三原綱木とザ・ニューブリード
小田:小田啓義とニューブリード(三原へ承継)
白鳥:作曲家の白鳥澄夫。妻はトワ・エ・モワの白鳥英美子

GSメンバーからは敬意を払われた ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

ザ・ワイルド・ワンズ

加山雄三に続く湘南サウンド。和製ビーチ・ボーイズ?
バンド名(野性児)の名付け親も加山です。最年少の渡辺がチャッピーと呼ばれ人気に。ボーカルは曲により持ち回りでした。

ギタリストの加瀬邦彦はザ・スパイダースや寺内タケシとブルー・ジーンズへの参加を経て、自身のバンド結成に動きます。ちなみにスパイダースを脱退したのはかなりコキ使われたことに加え寺内タケシの誘いを受けたから、ブルー・ジーンズを脱退したのはザ・ビートルズ来日公演の前座が決まった際「ビートルズを客席で観たかったから」というもの。

加瀬が奏でる12弦ギターの柔らかなサウンドは評判を呼び、デビュー後に最年少の渡辺茂樹が加入するとその人気は更に拡大しました。

湘南サウンドの功労者 ザ・ワイルド・ワンズ

「海」や「渚」を彷彿させる爽やかなサウンドは、加瀬が慶応義塾大学在学中から交流のあった加山雄三と並び「湘南サウンド」と呼ばれるように。
「不良」と見做されることが多かったGSの中でイメージが良かった為か、NHKに出演することが出来た数少ないGSの1つです(紅白歌合戦は出場無し)。

ザ・ワイルド・ワンズ

主要メンバー
加瀬邦彦(Gu.)
鳥塚繁樹(Gu.)
島英二(Ba.)
植田芳暁(Dr.)
渡辺茂樹(Key.)

代表曲
想い出の渚/青空のある限り/愛するアニタ

その後
加瀬:プロデューサー

加瀬邦彦は沢田研二の歴史に重要な存在 ザ・ワイルド・ワンズ

ザ・スパイダース


GSの扉を開いた実力派集団。
バラードもコミックソングも何でもこなす多才さで後の時代まで活躍するメンバーが揃いました。リーダーの田辺が自身でプロデュースしていたことは、芸能プロ主導のGSにあって特異な点でした。

1961年の結成以降、田辺の時代をかぎ取る優れた嗅覚で、技術力の高い演奏陣と個性的なボーカルというメンバーが集結。斬新な音楽性と作曲センスを備えたかまやつ、ハンサムで多種の楽器を演奏できる大野、独学ながらバンドを牽引したリードギターの孝之、ギターが基礎にあるメロディアスなベースを奏でる加藤、タレント性と軽妙さを持つ堺、アイドル並みのルックスと朗らかな人柄で愛された順……とマルチな才能を持つプロフェショナルとしての戦略性に沿って集められたメンバー構成です。

タレント揃い ザ・スパイダース

いち早くイギリスの流行を取り入れる先進性、福澤幸雄※の助言を受けた個性的なファッション、2人のボーカルによる軽妙なトーク、幅の広い音楽性、そして田辺による戦略的なプロモーション……とあらゆる意味でGSの頂点とも呼ぶべきバンドでしょう。
1966年10~11月にはヨーロッパでのツアー、1967年にはハワイを含むアメリカでもツアーを展開、海外での評価も獲得しました。

※福澤幸雄(FUKUZAWA Sachio):パリ生まれのレーサー、モデル。
パリ仕込みの洗練されたセンスでアパレルブランド:エドワーズの人気に貢献した。ザ・スパイダースのファッションにも大きな影響を与えたが、レース中の事故で他界。福澤諭吉の曾孫。

日本人の父とギリシャ人の母を持つ8人目のザ・スパイダース 福澤幸雄

ザ・スパイダース

主要メンバー
田辺昭知(Dr.)
加藤充(Ba.)
かまやつひろし(Gu.&Vo.)
大野克夫(Key.)
井上孝之(Gu.)
堺正章(Vo.)
井上順(Vo.)

代表曲
フリフリ/夕陽が泣いている/なんとなくなんとなく/あの時君は若かった

その後
田辺:田辺エージェンシー社長
かまやつ:ミュージシャンのムッシュかまやつ
大野:PYG⇒井上堯之バンド⇒大野克夫バンド、作曲家
孝之:PYG⇒井上堯之バンド、作曲家
堺:タレント、歌手
順:タレント、歌手

海外でも評価を得た ザ・スパイダース

ザ・テンプターズ

ボーカルのショーケンがジュリーと人気を二分するGSのトップスターに。GSの中でも男臭さと不良性=ロック色が強い存在でした。実はヒットしたのは1-2年、GSブームの儚さを象徴する(?)グループです。

埼玉県大宮市で活動していたアマチュアバンドが母体です。ある時のステージで急遽ボーカル抜きのステージとなった際、飛び入りで参加したのが当時中学3年生の少年。不良の仲間内にいた3人のケン、身体の大きさから大ケン、中ケン、小ケンと呼ばれていたうちの小ケン、萩原敬三でした。彼はそのままテンプターズに加入し萩原健一と名を改め、ショーケンは生涯続くニックネームとなりました。

自作曲を重視したGS ザ・テンプターズ

リーダーの松崎由治(ヨッチン)を始めとしたメンバーの自作詞・曲を早くから発表していたのは、プロダクション主導で職業作詞家・作曲家の楽曲が多かったGSの中で出色。ブルースやサザン・ロック等の影響下にある「渋い」サウンドとショーケンのハスキーボイスがマッチしていました。

ザ・タイガースと並ぶトップクラスの人気を誇ったのですが、実際には1969年から早くも人気は低迷、ラストステージは公式には録音も撮影も発表されていません。人気GSの内では一度も再結成しなかった(出来なかった)バンドでもあります。

ザ・テンプターズ

主要メンバー
松崎由治(Gu.)
萩原健一(Vo.)
田中俊夫(Gu.)
高久昇(Ba.)
大口広司(Dr.)

代表曲
神様お願い!/エメラルドの伝説/純愛

その後
萩原:PYG⇒ソロ、俳優
大口:PYG⇒俳優

映画『涙のあとに微笑みを』(1969)より 中央の女性は聖ミカ

オックス

登場はGSの中でも遅めの、世に名高い失神バンド
メンバーの失神を機にファンの失神が続発し、強い批判を招きました。パフォーマンスが語られる事が多いバンドですが途中離脱の赤松の中性的なルックス、野口の歌唱力も評判を呼びました。

ザ・タイガースと同じく京都を中心に集ったバンドです。同じく田園やナンバ一番を拠点とし、デビュー前から楽器破壊、そして失神という過激なパフォーマンスが話題に。ある意味ビジュアル系の魁?

ビジュアルとパフォーマンスが話題に オックス

ちなみにメンバーの失神は「演技」だったのですが、それを観て本当に失神する少女たちが続出、保護者や教育関係者からの非難を招きます。ただでさえ「不良」のイメージがあったGSが、一層社会から白眼視される一因ともなった存在でした。

英語表記では「OX」と書き、定冠詞THEが付かない珍しいGSの名前でもあります。OX自体は「牡牛」を意味する単語ですが、「マル」と「バツ」に見えて書くのが簡単だから、というのが諸説あるバンド名の由来の一つです。

ボーカルの野口ヒデトと並ぶ人気だった赤松愛の離脱を経て人気が低落しましたが、解散後も2人が人気歌手・俳優となる等、実力は決して浮薄なものではありませんでした。むしろ現在では「真木ひでと」や「夏夕介」がオックスだったことを知らない人が多いかも。

オックス

主要メンバー
福井利男(Ba.)
野口ヒデト(Vo.)
赤松愛(Key.)
岩田裕二(Dr.)
岡田志郎(Gu.)
田浦幸(Key.)

代表曲
ガール・フレンド/ダンシング・セブンティーン/スワンの涙

その後
野口:歌手、俳優の真木ひでと
田浦:歌手、俳優の夏夕介

赤松に代り田浦を迎えた第1作『ロザリオは永遠に』 オックス

ヴィレッジ・シンガーズ

フォークを愛好するメンバーにより結成。
長髪で不良じみたGSの中で短髪、成城・成蹊大学などの出身者が中心の優等生的で上品な雰囲気で存在感を発揮しました。メンバーの林はアニメ監督りんたろうの弟です。

エレキギターを中心としたロックサウンドが基調のGSにあって、カントリーや後期にはムード歌謡調の楽曲を多く生み出しました。清水の力強いボーカルとメンバーのコーラスワークが織りなす、美しいハーモニーも魅力でした。

ちなみに英語表記では「THE VILLAGE SINGERS」と定冠詞THEが付きますが、カタカナ表記ではザが付かないのが正式名称です。

不良性皆無 ヴィレッジ・シンガーズ

デビュー前には古関正裕(古関裕而の長男)がメンバーだったこともあります。1968年には兵庫県宝塚市の宝塚大劇場でリサイタルを開催したのも、彼らのイメージの良さを裏付けるでしょう。

ヴィレッジ・シンガーズ

主要メンバー
小松久(Gu.)
清水道夫(Vo.)
小池哲夫(Key.)
林ゆたか(Dr.)
笹井一臣(Ba.)

代表曲
バラ色の雲/亜麻色の髪の乙女

その後
小松:日本コロムビア、ビーイングディレクター。B-Gram RECORDS代表取締役
林:俳優、オールデイズ・ライブハウスチェーンKENTO'Sプロデューサー

バンドと言うよりムードコーラスグループ? ヴィレッジ・シンガーズ

ザ・モップス

鈴木のパワフルなボーカルと星のヘヴィーなギターサウンドでGSの中でもロック指向の強いバンド。特にサイケデリック色の強い作品は解散後に再評価を受けました。
一柳慧と共演するなど前衛的な音楽に意欲的で、着飾った衣装が多いGSでは珍しくヒッピー風の衣装をまとっていました。

当初からアイドル的な立ち位置を避け、「日本最初のサイケデリック・サウンド」を掲げてデビュー。揃いのスーツや衣装がお約束だったGSに於いて、各人がバラバラな衣装をまとい、ドラッグの幻覚効果を模したステージングを行う等、極めて不良色の強いバンドでした。

元祖サイケデリック ザ・モップス

後期は音楽性の幅を広げ、『月光仮面』のブルースアレンジ版カバーや阿波踊りとハード・ロックの融合『御意見無用(いいじゃないか)』等の個性的な楽曲を発表。メンバーの意志とは裏腹にコミックバンドと見做される悲劇もありました。とは言え1974年まで活動を続け、GSから次代のニュー・ロックを架橋する重要な存在です。

ザ・モップス

主要メンバー
鈴木ヒロミツ(Vo.)
星勝(Gu.)
三幸太郎(Ba.)
鈴木幹治(Dr.)

代表曲
月光仮面/朝まで待てない/たどりついたらいつも雨ふり

その後
ヒロミツ:歌手、タレント
星:井上陽水のアレンジャー、プロデューサー
幹治:愛奴、浜田省吾のアレンジャー、プロデューサー

日本語ロックの先駆的存在 ザ・モップス

ザ・ジャガーズ

六本木に集った遊び人グループ「六本木野獣会」から誕生。主演映画『進め!ジャガーズ 敵前上陸』(1968)は低予算と破綻した内容でカルト映画として知られています。

遊び人集団? ザ・ジャガーズ

バンドのトラブルやメンバー交代が相次ぎ、その人気は短期間で終息してしまいます。

ザ・ジャガーズ

主要メンバー
宮ユキオ(Dr.)
岡本信(Vo.)
沖津久幸(Gu.)
森田巳木夫(Ba.) 
宮崎こういち(Gu.)
佐藤安治(Key.)

代表曲
君に会いたい/キサナドーの伝説/マドモアゼル・ブルース

「サイケデリック・コメディ」に偽りなし ザ・ジャガーズ

ザ・カーナビーツ

ザ・ジャガーズと同時にデビュー。
ドラム兼ボーカルのアイ高野がスティックを突き出すパフォーマンスが少女を夢中にさせました。しかしグループとしての旬は短く1969年9月に解散。活動期間は2年半でした。高野はザ・ゴールデン・カップスに加入します。

アイ高野の指差しに熱狂 ザ・カーナビーツ

ザ・カーナビーツ

主要メンバー
アイ高野(Dr.&Vo.)
臼井啓吉(Vo.)
越川ひろし(Gu.)
岡忠夫(Vo.)
喜多村次郎(Gu.)
ポール岡田(Vo.)

代表曲
好きさ好きさ好きさ/オーケイ!

唯一のフルアルバム ザ・カーナビーツ

ザ・ゴールデン・カップス

横浜は本牧のレストランバー「ゴールデンカップ」に集ったメンバーから誕生。平尾や潘は滞米経験もあり、現地で吸収した抜群の洋楽センスと技術力を誇るバンドです。解散後に各メンバーが属したバンドも著名なロックバンドが多く、GSブーム後のロックファンにも愛されました。

「本場仕込みの洋楽センス」をアピールする為「全員ハーフ」という触れ込みでしたが、実はケネス伊東とルイズルイス加部だけが日米ハーフ、他は純アジア人(エディが中国系、他は日本人)です。

衣装もフリフリな衣装は全く見られず、各自ラフな格好に終始していました。おそらくザ・モップスと並び、GS最高峰のロックテイストを持ったバンドであり、また男性人気も高いバンドだったと言えるでしょう。

不良感横溢 ザ・ゴールデン・カップス

ヒット曲『長い髪の少女』は典型的な甘く切ないGS楽曲の為、これのみで彼らのセンスやロックテイストは測り難いかもしれませんが、こうしたオリジナル曲はメンバー自身ほとんどLIVEで演奏せず、ここで見せたカバー曲の選択と演奏こそ彼らの真骨頂だったと言えるでしょう。解散後も評価を高め続けた稀有な存在です。

沢田研二もこのバンド、特にデイヴに熱いリスペクトを捧げています。ジュリーが長年横浜に暮らしているのは、ひょっとしたらこのバンドの影響かもしれません。

ザ・ゴールデン・カップス

主要メンバー
デイヴ平尾(Vo.)
エディ藩(Gu.)
ルイズルイス加部(Ba.&Gu.)
ケネス伊東(Gu.&Ba.)
マモル・マヌー(Dr.&Vo.)
アイ高野(Dr.)
ミッキー吉野(Key.)

代表曲
いとしのジザベル/長い髪の少女/愛する君に

その後
加部:ピンククラウド
高野:クリエイション
吉野:ミッキー吉野グループ⇒ゴダイゴ、作曲家

圧倒的なセンス ザ・ゴールデン・カップス

ジャックス

このバンドをGSと呼ぶかは意見が分かれますが。
現在でも色褪せぬサイケデリックなサウンド内向的な詞は独特の魅力を放ち、解散後に評価を高め伝説的な存在となりました。

1965年に高校の同級生で結成され1968年デビュー、1969年8月9日の第1回全日本フォークジャンボリー出演を以て解散。正にGS時代の真ん中を生きたバンドではありますが、その間にリリースされた4枚のシングルと2枚のアルバムはいずれもヒットには至っていません(解散後に複数のシングル、アルバムがリリース)。エレキギターをベースとしたバンドサウンドと自省的・内向的な詞世界はグループ・サウンズとフォークの混合とも言えるでしょうか。

独自の世界を築いた ジャックス

彼らが真にその評価を得たのは解散から10年を経た1970年代後半。東京ロッカーズ※の面々、分けてもスターリンの遠藤ミチロウが彼らの熱狂的なファンであり、事ごとにその魅力を語り楽曲をカバーしたこと。

※東京ロッカーズ:1970年代後半、六本木の「S-KENスタジオ」に集ったバンドの総称。フリクション、LIZARD、S-KEN等。

他にもAUT-MOD等がジャックスの楽曲をLIVEのレパートリーに取り入れたことで、当時を知らない世代に「ジャックス」の名が浸透していきます。カルメン・マキやあがた森魚ら、彼らと近しい世代からも熱いリスペクトを受け、今日では「ニュー・ロックの礎石」といった位置づけを為されています。

また中心人物の早川はバンド解散後ほどなくして音楽から身を引きますが、1994年にソロとして活動を再開。マイペースながらユニークな作品を残しました。

ジャックス

主要メンバー
早川義夫(Vo.&Gu.)
水橋春夫(Gu.)
谷野ひとし(Ba.)
木田高介(Dr.&Fl)

代表曲
からっぽの世界/ラブ・ジェネレーション/時計をとめて/堕天使ロック

その後
早川:ソロ
水橋:テイチクのディレクター
木田:アレンジャー

解散後に評価された ジャックス

ザ・ハプニングス・フォー

ギターレスという珍しいスタイル。とても洒脱で技巧派のサウンドで多彩な音色を奏でました。メンバーはその後の音楽界でも大きな足跡を刻みました。河内兄弟はクニが兄です。

福岡県博多市で活動していたアマチュアバンドが母体。東京へスカウトしたのはミッキー・カーチス、バンドの命名者は黛敏郎でした。ダブルキーボードで華やかな音色、ブーガルー(1960年代のニューヨークで流行したラテン音楽)等の日本人には耳新しい音楽を果敢に取り入れ、ヒットにはつながりませんでしたが「カルトGSの代名詞」的? な存在です。

ギターレスでも華やかな音色 ザ・ハプニングス・フォー

バンドとしての知名度は決して高くはありませんが、メンバー各員は作・編曲家やスタジオ・ミュージシャンとして精力的に活動。数名はザ・タイガースや沢田研二の歴史にも大きくかかわってきます。

ザ・ハプニングス・フォー

主要メンバー
クニ河内(Key.)
チト河内(Dr.)
トメ北川(Vo.&Per.)
ペペ吉弘(Ba.)
篠原信彦(Key.)

代表曲
あなたが欲しい/アリゲーター・ブーガルー

その後
クニ:アレンジャー、作曲家
チト:新六文銭、トランザム、CO-CóLO、編曲家
篠原:フラワー・トラベリン・バンド、トランザム、CO-CóLO、作曲家

ユニークなライブアルバムのジャケット ザ・ハプニングス・フォー

【GSとは何だったのか】

ここまで主要(一部そうでもないかもしれない)GSを紹介してきました。この時期に編成、デビューした(主にロック)バンドは猫も杓子も「グループ・サウンズ」と呼ばれた為、その総数は100以上とも200を超えるとも言います。デビューに至らなかったとかデビュー直後に消えたというバンドもかなりあるようで、その全貌は現在でも明らかになっていない面があります。

とは言え、「グループ・サウンズ」という単語の命名者は寺内タケシだそうで、前回ご紹介した「GS前史」と「GS以後」を明確に区分けできるほど、音楽史の1ページを刻んだ集団であったことは間違いありません。
GS自体が社会現象と呼べる程の熱気を生んだのですが、人気の面においてグループ・サウンズの頂点に位置したのは、紛れもなくザ・タイガースです。或る人に言わせれば

グループ・サウンズファンの9割がザ・タイガースのファンで
ザ・タイガースファンの9割がジュリーファンだった

なんて言葉になるほど、それは圧倒的なものでした。
しかし追々触れますが、ザ・タイガースはアイドルとしては完璧でも、演奏力は高くはありませんでした。だからこそ日本中の少女たちの熱狂を呼び、だからこそ「軽佻浮薄」という批判を呼ぶ事にもなったのですが。

ですがここでご紹介したように、演奏技術や選曲・作曲センスを評価されたバンド、メンバーは大勢います。
そうしたメンバーのうち、その後の音楽界・芸能界に様々な形で携わった人々はかなりの数に上ります。「GSが日本芸能史の一部を築いた」ことは、紛れもない事実なのです。

またGSの楽曲の多くは、職業作詞家・作曲家によって生み出されました。彼らは時代が、ファンが求める声を敏感にかぎ分け、その期待に応える楽曲を書き続けました。それもまとめ5で紹介したように、ワンパターンに陥らぬよう周到な戦略に則って。とは言えそうした「戦略」が「作られたアイドル」として一部の反発を生んだことも、また事実ですが。

優れた作家の手によって曲が生まれ、
優れたメンバーによる熱演があって、
GSは歴史に残る存在となりました。

決して「時代の仇花」といった、浮薄な一過性の流行ではなかったのです。

GSの歴史紹介が長くなってしまいますが。
次回はGSを彩る数々の名曲を生み出した人々を。
次々回はGSの一員だった意外(?)な人々を、ご紹介いたします。

(続く)

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