推定無罪の相剋


日本では推定無罪が形骸化されていると散々言われているが、実態として推定無罪に及んだ例はオウム真理教と松本サリン事件など極少数例しか存在しないので人権侵害となるよりは表現の自由に基づく報道の自由による国民の知る権利に資する方が社会的に有益な側面が大きいことを受けて比較衡量されて後者が勝ってきた。

そもそも、推定無罪とは、裁判で有罪判決を受けるまで被疑者を無辜の人と鑑みて取り扱う法原則である。国際人権規約B14条2項を受けて、我が国では刑事訴訟法336条の条文があるが、諸外国のように憲法に条文が存在するわけではない。

なぜ推定無罪が忘却にあるのか。それは新聞をはじめメディアと警察報道の関係性にある。新聞側は冤罪である誤報を怖れる。そこで当局という形で警察発表をそのまま報じる。つまり、新聞による犯罪者報道で推定無罪が発揮されないのは、警察発表をそのまま報じていることによる。

これは警察の捜査能力にイコールである。仮に警察発表の時点で捜査に問題があり、冤罪が発生しており、推定無罪を蔑ろにするようなケースがあれば、コピーアンドペーストして報じているメディアが自浄作用など毛頭に期待できないのだ。

また国民の知る権利に基づく内容も大きい。国民の知る権利は表現の自由から報道の自由とともに保障された権利である。

この二つの権利を比較衡量した際に、国民の知る権利に重きを置いているに過ぎない。これは功利主義による最大多数の最大幸福概念と同様である。また、国民サイドからは、少年法厳罰化と未成年犯罪に対して実名報道を求めるなど、推定無罪形骸化同様の法による保護以上に知る権利を要求してきた背景も存在するのだ。

私は冤罪は絶対に許されないと考える。ゆえに、報道の自由は推定無罪を最大限に尊重すべきと考えるが、同時に国民の知る権利という新聞はじめメディア媒体は存在命題をかけた義務が存在する。その存在命題が警察発表のコピーアンドペーストと我が国の警察及び検察の極めて高い有罪率への信頼ないし担保という根本問題なくして、この相剋は終わらない。

https://www.newsweekjapan.jp/tokyoeye/2020/11/post-45.php?fbclid=IwAR2RPKWcn11aBYDA1FclKA57Bq4A-3ZgGEvBOn_7NBdx_H35e463c7jjeUQ

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