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一病息災?

黄斑裂孔

おいらは小学生の時にサッカーボールが右目に当たってしまい、その結果、眼底出血を起こしてしまいその血液が抜ける際に網膜と一緒に破ってしまった結果、黄斑裂孔という怪我?になってしまったんです。
これは映画などのスクリーンの真ん中に穴が空いてしまっている状態で、そこに映像を投影してもその部分が見えない状態になってしまうという現象と全く同じで、黄斑部という網膜の中心部(目の焦点がある場所)に穴が空いてしまっているために右目は文字などが物理的に読むことができずに周辺視野しか確保できない状況になっているというものです。
まぁ当時は本当に色々な病院などに通って治療というか経過観察などをしていたんだけど、その時から状況は何も変わっていないんだな。
でも、数年前に目の精密検査をしたら穴は塞がっていますよという説明を受けたんだけど、その部分に神経が通っていないために結果的に黄斑裂孔と同じ状況になっています。
最近は黄斑変性という加齢と共に網膜部分が劣化してきたことにより同じような現象になることが小さな世界では話題になっているようで、iPS細胞などで復活されるような話があるとかないとか言われているようだけど、おいらには全く関係がない状況です。

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緑内障と言われ

元々近視が強くて網膜が健診では視神経乳頭陥凹拡大の疑いありという検査結果が出ていたんだけど、近視が強い人は同様の現象が出ているので30歳代の頃には問題は有りませんよと言われてきたんだよね。
それが、数年前に飛蚊症になったときに行った眼科で、緑内障の疑いがあるので定期的に検査をするようにした方がよいという指導があり、数年間半年に一度通っていたんだよね。
それが2019年に仕事が忙しくて通院ができずにそのまま放置していて、先日新しいコンタクトレンズの度数を合わせてに通院したら、1年以上も来ていないなんてダメでしょ!と院長先生にお叱りを受けて昨日検査をしてきました。
その結果は、緑内障と診断して差し支えない位の進行が有りますと宣言されてしまいました。まぁ想定の範囲内ではあったけどね。
緑内障は網膜の劣化によって起こる病気であり、進行性で治療法はないというやっかいなものなんだよね。よく同列に並べられる白内障はレンズを手術で交換することで完治するのだけど、緑内障は症状の進行を抑えることだけが治療となるというもの。ここだけを見ると絶望的なのかと思うけど、40歳台では5%、60歳台では10%の人達が罹患しているという統計もあるようなそれほど珍しいものではないという事実もあります。
で、ここから残りの人生が何年有るか解らないけど、眼圧を抑える目薬を一生点眼することになりました。
誰かが革命的な治療法を発明するまではこの状況が続きます。
まぁ膝が痛いとか腰が痛いということとそれほど代わりがないのかなと思っています。ただこれを習慣化させないとダメだということをきちんと続けることが重要であり、なかなか大変だねという感じです。
でも、おいらは小学生の時に右目を怪我しているので、目に関しては通常の人よりも神経質になっているので、ショックも失望感もなく淡々と気をつけないとね~って思っている程度です。

無題

気になることがあること

で、ここからが本題です。
一病息災というのはどの様な意味なのか。
「何も病気がないというよりも、気になる病気が一つでもあることで健康に気をつけて結果的に長生きができる」という意味です。
健康な時は、健康であることを気にすることはありません。病気になって不自由なことが出来て始めて健康ということに意識が向くことがあります。
今のコロナ禍という状況があることで、普段何気なく普通にできていたことができなくなることで、何気なく普段の生活をすることの貴重なことを意識するということと同じだと思います。
この一病息災というのは良く言ったもので、まさにこの考え方を実践できると色々なことが良くなるのではないかと思っています。
自分が行うこと、考えることなどを含めて、何かできないことがあると、そのことに対して意識を向けて、それを注意することで総合的にできないことがあることが、より出来ることにつなげることができることが非常に多いと思う。

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おいらが大好きなスキーでも同じことがあると思います。
左足外足が苦手でうまくいかないことがあることで、それを意識すると特異である右脚外足の使い方がよりうまくなり、総合的に全体のレベルも向上するということと同じだと思います。
まぁとはいえ、スキーはなかなかうまくならないので納得は行かないけどね。

仕事での有効活用について

仕事でも一緒だと思っています。できないことがあることが幸せだと感じる感性を大切にしていければと最近強く思っています。
この歳になって、社内とか現場ではある一定の地位を得ていることからすると、周りの人から見たら当然のことながら色々なことができ、その人たちから見たらできないことは無いように感じているように見られるのは仕方がないこと。
でも、自分としてはできないことが本当に沢山あって、それを一つ一つ丁寧に例え完全な正解ではないとしても、数少ない選択肢の中から少しでもより良い答が無いかとあがきながら探しているんです。
何かが出来るようになり、周りから批判・否定されることが少なくなってきて、権力を持ってお金を持って(おいらはないけど(笑))しまうと、変わってしまう人が多くなるんだよね。
でも、そんな時こそ、一病息災の考え方で、全ては完璧ではないけど、そのことは瑕になってしまってはいるけど、そのことがあることで他のことでフォローしたり、できないことに対してはより丁寧な扱いをすることで総合的に見た時の成果をより高めることができるのではないかと考えている。
というより、考えて行きたいと思っています。
なかなか難しいテーマではあるけど、それほど難しいことでもないような気がする。
自分が付き合っていく自分という特性、自分が持っている持病と同じだと思うので、このことを意識し続けられるようにしていきたいなと。

無病息災ではなく、一病息災。
あばたもえくぼ(ってちょっと違うか(笑))

この歳になっても、少しずつ学び成長していきたいと
スキーもうまくなりたいなと(笑)


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