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二千年後の呪詛と祝詞 ――『家畜人ヤプー』にむけて――



すべての無辜なる同胞(はらから)に捧ぐ


 『家畜人ヤプー』とは何か。『家畜人ヤプー』は1956年にSMカストリ雑誌『奇譚クラブ』に連載され、1970年に都市出版社から単行本化された。三島由紀夫、澁澤龍彦らに絶賛され、戦後最大の奇書といわれている。作者は覆面作家・沼正三である。沼正三の正体は今日においてもはっきりとはわかっていない。諸説あるが現在公式に沼正三とされているのが天野哲夫である。第二の有力候補とされているのが裁判官・倉田卓次である。この沼正三の正体も『家畜人ヤプー』が奇書たる理由のひとつである。2008年11月に天野哲夫、2011年1月に倉田卓次は逝去した。

 『家畜人ヤプー』のあらすじを説明する。西暦196X年の西ドイツの山麓、日本人留学生・瀬部麟一郎とドイツ人女性・クララのカップルが乗馬を楽しんでいた。そこで二人は、未来から不時着したUFOと邂逅する。そして二人は、UFOの主であるポーリーン・ジャンセンに未来である二千年後の世界に連れ去られてしまう。その二千年後の世界とは、EHS(イース)とよばれ、白人女性専制社会であった。EHSでは白人が「人間」とされ、黒人は「奴隷」であり、日本人は「ヤプー」とよばれていた。ヤプーは、白人の家畜にされ、生体家具・人間便器・自慰道具などさまざまな用途に使われていたのだった。

 三島由紀夫は『小説読本』においても、『家畜人ヤプー』を絶賛している。

瞠目させるのはただ、マゾヒズムという一つの倒錯が、自由意志と想像力によって極度に押し進められるときには、何が起るかという徹底的実験が試みられていることである。一つの倒錯を是認したら、ここまで行かねばならぬ、という戦慄を読者に与えるこの小説は、小説の機能の本質に触れるものを持っている。

「この作品のアナロジーや諷刺を過大評価してはいけない」 三島由紀夫 『小説読本』 「小説とは何か」。p.121

沼正三の「自由意志」と「想像力」によって描かれたのが『家畜人ヤプー』である。その小説世界では、マゾヒズムが極限まで展開される。

 『家畜人ヤプー』第4章「ヤプー本質論」は、「1 知性猿猴(シミアス・サピエンス)とは」からはじまる。この章では、なぜ日本人が「ヤプー」とよばれるのかをポーリーンがクララに説明する場面である。クララは瀬部麟一郎と本気で婚約を考えていた。それを知ったポーリーンが、二人の婚約をやめさせるべく、クララに瀬部麟一郎を「ヤプー」だと認識させるよう説得する。

「遠い未来の世界で白人が黄色人を奴隷(どれい)にしているからといって、妾(あたし)たちの愛情に何の関係があるとおっしゃるの?仮にそうだとしたって妾(あたし)は少しも結婚を躊躇(ちゅうちょ)しません」、クララは目を輝かせていい切った。「奴隷だって人間(マンカインド)です」
「黄色い奴隷なんてものはありません、奴隷は黒色よ。そして黒奴は人間(ウマンカインド)じゃなくて半人間(デミ・ウマンカインド)よ」、ポーリーンは事もなげにいった。「肌が白くなければ人間とはいわないわ。形容詞をつけて白人(、、)なんていう必要はないのよ、妾(あたし)たち人間は――」(このようにイースにおいては白人(、、)という概念は存在しないのであるが、二〇世紀人を読者に持つ関係から、以下の説明において白人(、、)を用いることを諒(りょう)とされたい)

沼正三 『家畜人ヤプー 第一巻』 幻冬舎アウトロー文庫、1999年。p.77

『家畜人ヤプー』の世界では、日本人は「人間」ではない。日本人のアイデンティティまでもが去勢される。そして、読者である日本人も「去勢」される。読者は『家畜人ヤプー』を読み進めるうちに、日本人は「ヤプー」であることを刷り込まれてしまう。ポーリーンはクララに答える。

「ヤプーは類人猿(エイプ)よ、獣(ビースト)よ、動物(アニマル)よ。いくら知性があっても、獣を奴隷(スレイブ)とはいわないわ、家畜(キャツトル)だわ。ヤプーは知性(、、)ある(、、)家畜(、、)なのよ」

同上。p.78

これこそ、ヤプーの本質である。さらに、『家畜人ヤプー』では、このような場面がある。

不浄畜(ラヴアタ)には、厠(し)畜(ちく)類(るい)のほか、肉(スピ)痰(ツ)壺(ーン)とか肉(ヴオ)反吐(ミト)盆(ラー)とかがあるが、代表的不浄畜はもちろんセッチンである。これは、多くの生体家具と同じく雄ヤプーを材料として作られるもので、その機能は、口腔と内臓を人間の排泄物の容器とすることにある。生体家具の常として、幽門、すなわち胃と腸との境界部分は循環装置のために閉塞(へいそく)されているので、内臓といってもこの場合、腸は関係がない。

沼正三 『家畜人ヤプー 第一巻』 「第六章 便所のない世界  2 三色(トリコロル)摂食(・フツド)連鎖(チェーン)機構(システム)」。p.117-118


 書物は読者に選ばれるものである。一方で、また読者も小説に選ばれている。そもそも『家畜人ヤプー』は厳しく読者を選んだ。それが現在では、一方的に読者が『家畜人ヤプー』を避けつづけている。それこそが戦後最大の奇書たる理由である。『家畜人ヤプー』とは、そもそもマゾヒスト以外にむけられて書かれたものではない。沼正三のただの自慰行為(オナ二―)なのである。沼正三の自慰行為(オナ二―)は文学に昇華されたのである。「文学とは何か」を永遠に自己と対話するものにこそ、「文学」を体験してもらおうではないか。文学そのものを超越すること、文学を超えた何かを追求し、われわれは、これからの文学の可能性に期待する。
    
 沼正三は死んだ。『家畜人ヤプー』は戦後最大の奇書として、このまま生きていく。万人に不快を与える小説として存在しつづける。その不快を快感に変える快楽こそが『家畜人ヤプー』を読む者だけに与えられた特権的な楽しみである。

刮目せよ、ヤプーども。これが二千年後の日本人だ。

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