「変化するもの」と「変化せざるもの」の硲で

三年前より新潟県内数カ所の朝市に出店している。全国的に見ても、朝市のような、決められた日にちに定期的に開かれる市が数多く残っている新潟県は、かなり珍しい地域であると他県からきた研究者はいう。なるほど新潟県には多くの定期市が、朝市として残っている。新潟県の定期市の歴史は古く、遡り得る最古の歴史としては、胎内市にある中世絵巻にまで遡るそうだ。私自身、これまで新潟県内の様々な地域での朝市の出店をしてきたが、県内の多くの朝市がかつてのような賑わいを見せてはいないように感じる。高度経済成長期以降、大手のスーパーやコンビニエンスストアが普及し、客足はそれらに流れた。なんとか生き残った出店者や市に顔を出してくれていた客層も、時代の流れと共に少しずつ減り、高齢化が進んでいる。近年では食料雑貨や生活雑貨の購入などもネット通販やネットオークションなどで行うことが出来るようになり、再び、市の存在意義自体が大きく問い直されてきている。市の社会的な役割というものを考えたとき、そこにあるのは何も物の売り買いだけではない。様々な人たちが様々な場所から集まり、顔見知りになる。そして、立ち話を通して、様々な情報を交換するようになる。その時点で市は、モノ(商品)やヒト(売り子や客)のみならず、コト(情報)が集まる場となる。また、携帯やスマホが普及する以前、普段は別の地域で暮らしていた人たちも、市の日になると再びその場所で出会い、お互いの安否を確認ことができた。交流の場としての機能もあった。朝市には、物の売買以外にも、人と人とをつなぎ、買い物を通して“場”を提供する。そんな役割があるのだ。


さて、新型コロナウィルスの波及は、私たちの生活様式を一変させた。学校や職場の時間をずらしての登校や勤務、リモートによる授業や仕事。スーパーや飲食店等、人々の暮らしに密接に関わる商店などの営業時間の短縮など、私たちの暮らしに大きな変化をもたらした。緊急事態宣言が解除した現在でさえ、‶アフターコロナの世界を生きる各人の在り方″として、おせっかいにも「新しい生活様式」というものが国や専門家らによって提案されている。


―新しい生活様式― なるほど、一見するとインターネットなどのテクノロジーを用い、今までの生活をより豊かになるようにも思える。情報処理やITに強い若い健康な人たちは時代の流れに応じて、自身の生活様式をすぐにでも変えることが出来るだろう。だが、コロナ以前の生活様式で半世紀以上過ごしてきた多くの高齢者の方たちや、急な生活環境の変化に対応することが難しいしょうがい者の方たちにとってはどうだろうか。「新しい生活様式」を実践することはかなりの困難を有することもあるかもしれない。そういう人たちの暮らしについてはどのように考えていけばよいのだろうか。
自然界の歩みや人間の歴史を顧みれば、時代に何らかの変化が訪れるとき、その変化に敏感に対応できる者がある一方、その変化に対応できず、滅んでしまう者も一定数ある。変化についていけず、滅んでしまう者たちの選択、一概にそれは全てその者たちの自己責任であり、変化せずに滅んだのは、その者たちが自らの意思でその道を選んだのだとすることが、果たして本当に正しい理屈なのだろうか。

私たちの生活は今、間違いなく大きな変革を求められている。ただ、その一方で、変革できない人たち、時代の流れに乗ることが出来ない人たちについてのケアもしっかり考えていく必要があるのではないだろうか。
私は今日も朝市に出店する。売り上げや効率などを重視するのならば、もっと別の売り方もあるのだろう。何せ、望めばネットで何でも手に入ることが出来るようになった時代。そんな時代に、私が未だに“朝市”にこだわるのは、「変化するもの」に対する私なりの精一杯の反逆なのかもしれない。

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