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深海【遊戯王Advent Calendar 20日目夜】

こんにちは、橘柳です。

先日は米ココアさんでした。

僕の子供を見てるとバブみはあまり感じませんね。
本当にベイビーなのに不思議ですね。

さて、今年のアドカレは書くことを決めて臨んでいたのですが。
二日目くらいに言いたい事を言われ、その後構築論がバンバン出て「今更構築論か・・・。」と思っている次第であります。

じゃあ何を書こうかと直前まで悩んでいましたが、ふとした疑問を抱きました。なんでここまで構築論が出てくるのか。
今年は少し多すぎはしないか?と思っていました。

僕個人の体験ですが、構築論を書くときは基本的にキレてるときが多かったです。
僕は昔からデッキ構築が大好きで、その楽しさはをみんなに改めて知ってもらおうと構築論を書いていました。
楽しさを知ってもらおうというか、構築にもっと真面目に取り組めや甘えんなボケとか思ってました。

そういう理由ではなく、自分のデッキや考え方を表現したかったのもあるみたいです。
実際、コロナ禍でしたし、リモートでしかデッキを表現できないから自分の考えを表明する意味でも構築論を執筆したみたいですね。

にしてもなんでここまで多いのか、少し記事を漁ったところ共通点がいくつかありました。
好きなようにデッキを構築したり、カードを採用するのが尊いものとされている事です。
記事の論じ方や着眼点はそれぞれ違うものの最終的な着地点は似たり寄ったりでした。

話は変わりますが、ようつべで動画をぼーっと見ていたらZ世代の話をしている動画にたどり着きました。
Z世代の大切にしている事の一つに「価値観の共感」が存在しているようです。

ジェネレーションZ(英: Generation Z)、Z世代(ゼットせだい)とは、アメリカ合衆国や英語圏、日本などにおいて概ね1990年代中盤から2000年代終盤までに生まれた世代のことである。-Wikipedia

なるほど、これは単純に価値観を表明して共感してほしいだけなのかと思いました。
遊戯王の社会正義はいくつか論じされてもいますが、最終的な欲求は遊戯王界を変えることより「今僕はこう考えている!共感してくれ!」の方が強いのかもしれません。

先に結論にたどり着いている遊戯王老人会からすると、何度も同じ話をするなとふがふがする気持ちになるでしょうね。
しかし、構築論は論と言われていますがほぼほぼエッセイに近い文体なので参考文献を引用する義務は生まれません。
またZ世代は信頼した人からの情報を大切にするんので、どこの馬の骨かわからん遊戯王概念老人会の意見なんか取り入れないのが基本です。

という事で、私の価値観を共有させていただきます。

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表向きでは自由で多様的って話ですね。
多分、自由で多様的じゃないから構築論が生まれるんじゃないですか?

まずは自由について話します。

・不自由

自由と言えば、社会的理性に基づいている限り保証されているものですね。
この言葉はとても便利で、何かしら行動を制限されたり横から何かを言われたら自由を侵害するな!と、言葉の弾丸が飛んできます。
また、他人の理解できない行動を「その人の自由だよね」と言って無理矢理納得させてしまう言葉でもあります。

さて、不自由という場合何かしらの制約があって不自由と証明されます。
どんな制約があるのかというと。

・目新しいデッキでなければいけない
・構築に真摯でなければいけない
・いい人じゃなければいけない

一個一個議論しようと思いましたが、過去に議論したのでその記事見てください。

上二つの記事は、その制約ぶっ飛ばそうぜという意見です。
それでもカジュアル界隈は普通のデッキではないものを求めてみんな構築に励んでいました。
人間って簡単に変わりはしないよねという話ではなく、上記三点からなるもっと巨大な抑圧があったと考えました。

それに抗う意味も込めて上記の記事を書いたんじゃないかなと思います。

・排他的

対話的遊戯王を求めている時点で排他的ですね。
多様的ならDFGが飛んできても受け入れます・・・。

冗談ではなく、本気で思っていますが少し補足します。

去年の僕のデュエル動画はオワコンですでメンバーフレンド戦を取り入れるべきだと触れました。

何かの風にのってご本人まで届いたようですが、結局デュエル動画は変わる事はありませんでした。
なぜこんなことになったのか改めて考察したところ、排他的であるが故という結論が出ました。

デュエル動画は魅せるものであり、参加させるものではないのです。
多様的であれば、あのチャンネルに視聴者がリモートデュエルで対戦している様子を生放送していると思います。
自分達のコミュニティの環境を守りたいが為に排他的になったと判断できます。

カジュアル界隈も同じだと思います。
普通のデッキでも良いはずなのに、他人と違わなければいけない抑圧があるせいでなかなか対戦に踏み出せない人も多くいると思います。

いいデッキじゃなきゃ同じ土俵に立つことができない。
パワーラインを合わせなければいけない。

コンセプトを説明しなきゃいけない・・・。
ハリラドンや烙印融合を使うと怒られるからそれ以外の・・・。

等々、パワーラインという狭き門がより排他的な風潮を作り上げていると言えます。

ここまでの議論をまとめると、結局過去言ってた事と変わんないじゃねーかと思います。
正直僕も思っています。
結論を何度も繰り返すのが悪い事だとは思いませんが、次のステップに進みたくなりますよね。

次のステップと言っても、カジュアル界隈は不自由で排他的なところだと認める事くらいです。

誰とでも自由に遊べないし、非合理的な構築だから平等な遊戯王を行う事が出来ないですね。気の合う仲間かパワーラインが合致した友人とのみ遊ぶことが出来ます。

逆に言うと、我々は結論を獲得したことにもなります。
カジュアル界隈を考察した結果、カジュアル界隈とは不自由で排他的。そして効率が悪いデッキ構築でした。

不自由で排他的なのに、自由で多様的なカジュアル界隈と言ってはいけません。
デッキ構築は己との対話なのに、自分の構築論を見せつけても無意味です。
排他的になるように、リモートのマナーや筋の通ったデッキ作りをおすすめしてもいけません。

特にリモートのマナーは本当に最悪だと思っています。
マナーは価値観の押し付けであり、それ以外を排除すると高らかに宣言しているのと何ら変わりはありません。
悪気が無くて書いたとか関係ありません。配慮が出来ない無知は死ぬしかないんです。

特に、構築力が上手でなきゃいけない事は本当に納得が出来ません。
僕からすると全員構築が下手とかそういう事ではなく。構築力というステータスを利用して他人にレッテルを貼り付け、ヒエラルキーのように構造化する事が本当にムカつくんですね。
構築力が高いか低いかを判断するのは個人の感性に委ねられます。ほんの数人にしか褒められてないクセに構築力が高いと勝手に舞い上がって筋が通る構築にしろとか言語道断ですね。差別主義者です。

構築力は定義できるものではなく、パラメータ化する事も出来ません。
あやふやなものを利用して自分の気持ちいい事言っているのは健全な大人に対する冒涜です。

仮にパラメータ化するとしたら、一番信頼ある数字はフォロワー数じゃないですか?

カジュアル界隈は何一つ変化せずにインフルエンサーの力だけで西へ東へウロウロ論調が変わるクソみたいな世界ということですか?

こんな世界にいても疲れるだけなので、脱出しちゃったほうが楽じゃないですか?
気の知れた仲間を囲って、自由で多用的な遊戯王を楽しんだ方が全然いいですよね。

という事で、これから個人はどんどんクローズ化を加速するべきだと思います。

オープンな世界とは、今まで通りみんなで楽しい世界。
クローズな世界とは、気のしれた数人で囲う世界です。

オープンな世界で気のしれた仲間を適当に募集し、クローズな世界でその仲間と日々遊戯王を楽しむのがおすすめです。

オープンな世界でしか生活できなかった人は、今すぐ仲いい人をディスコードで囲ってデュエルするべきでしょう。そうすると安定したデュエル環境に身を置くことが出来るので自分の遊戯王をもっと表現できます。

是非やってみてください。そこで是非自分の遊戯王を楽しんでください。

オープンなカジュアル界隈は自分の意見が正しいと思い込んでいる人々で溢れ返っています。
正解がない世界の筈なのに、あたかも正解へと誘導してくる差別主義者もいます。
そういう奴らって構築を利用して人を下に見たいだけなんです。



明日はユキカゼさんです





Mr.childrenは1996年に深海というアルバムをリリースしました。
当時のMr.childrenは何を出してもミリオンセラーという化け物バンドでした。
Mr.childrenがアルバムを出すと発表し、ファンは大人気ポップソングであるシーソーゲームやeverybody goesが収録されていると期待されていました。
しかし、蓋を開けてみるとそこには深海というタイトルで海の底に椅子が沈められているジャケットでした。
あまりにもダークなミュージック。救いのない歌詞。救いを求める歌詞。
多くの人が度肝を抜かれました。
このアルバムはMr.childrenの最高傑作とも問題作品ともいわれました。
ファンの間では、踏み絵ともいわれていました。

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