禅と遊戯王 弍

そうだ思い出した。
この話は高尚な話なんかでは無く、他人のために書いた記事でも無く、自分自身を肯定するために書いた記事だった。

僕はデッキ構築に大量の時間と苦悩を割いている。ありがたいことに一定の方々から評価を得られているが、もっと評価されてもいいのかなって少しだけ思うことがある。

でも、それはきっと構築に魅力が足りないからで自分自身の力不足だと言い聞かせてきた。
そうすることでしか、僕は表現をすることができなかった。

しかし、他人は別の表現によって拍手喝采を得られている。そしてその構築は僕からすると褒められるほどのものではなかった。

何故、僕は評価されなくて他の人が評価されるのか。いろんな言葉を探した。しかし、どれも満たしはしなかった。

そんな中、この記事に出会った。

一番大事なのは自己肯定である。
足りない狂気は、自分の心を蝕むものでは無く包み込むものだと信じた。

そしてある一つの記事で自分を肯定した。

なんでこんな苦労をしなきゃ行けないのか。
なんでこんな時間をかけなきゃ行けないのか。

何故、誰にも正当な評価を得られていないのに続けることができるのか。


話は変わるが、Mr.Childrenの「言わせてみてぇもんだ」という曲の中に「どっかの天才を僻んで皮肉を吐いてみても何にもなりゃあしねぇよ、どうすりゃあいいの?」という歌詞がある。

自分自身は天才ではないとはっきり思う。
凡人の才能しかないと確信している。

そうしないと、ここまで苦労している意味を見出せなくなるからだ。

天才ならきっとこんな苦労を感じもせずに、あっという間にできるのかと思うと自分の才能の無さに呆れ返ってしまう。

趣味の世界の中で、必要のない努力をして承認欲求を満たせないのには理由が必要だからだ。

その理由は、「俺は誰よりも構築が上手だ」という自惚である。

それと引き換えに、誰よりもストイックにインプットを繰り返し、同時にアウトプットを行う。
誰よりも構築にストイックになる必要があった。

自分で自分の首を絞めた。
自分で自分のケツを叩いた。

本当にそれでいいのかどうか何度も確かめた。
何度も自問自答を繰り返した。

そして、禅と自分を重ねた。
これも、救いだった。

何のために自分自身を奮い立たせているのか。
何のために、ここまで苦悩する必要があるのか。

それがわからなくなった時に、この記事を思い出してほしい。
同じように悩み、苦しんでいるのは君だけじゃない。

少しくらい、歩みを止めてもいいのかもしれない。






でも、それでも。
構築に甘えは出したくない。
しっかりとしたデッキデザインを突き詰めたい。
こんな苦悩へでも無い。
これよりもっと苦しんでる人はいっぱいいるんだ。
天才だと崇め奉られ、凡ミスの許されない人々が存在すると考えると、歩みを止めることなどできない。
足りない狂気は言葉で補った。

偉大なる棋士、羽生善治九段はこう言った

私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。
しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている


みんなは何をやっているんだろう。

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