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THE HISTORY OF HIPHOP Vol.0

・概要-謝辞

ページが重すぎたので、Vol.を分けます。
Vol.0は奴隷制〜HIPHOP誕生までです。
この記事は、以下のShama Station様の動画 [HIPHOPの歴史] のメモを元にしております。そのメモに個人的に調べた注釈を付け加えたものとなります。
この場において日頃参考にさせて頂いている、Shama Station様に心より感謝申し上げます。

・奴隷制度とHip Hopのルーツ

HipHopの歌詞など文化的背景を理解するには歴史に目を向けないといけない。
アメリカは、1776年に独立するまで、イギリスの植民地としてプランテーション 農業(安い労働力で行う大規模な農業)を行う場所であり、そこで作られた安いタバコや綿花、砂糖やコーヒーは、イギリスに輸出されていた。
最初はアメリカに移ってきた白人が一部の先住民に行わせる契約付きの労働であったが、イギリス人が海賊から黒人を買収したことで、「人間は人種によって優劣があり、それによって区別して良い」という人種主義の考えが誕生した。

それまで、肌の色は、赤道に近い国の人は、紫外線から肌を守るために、黒い肌をしている。といった程度の認識であったのに対し、奴隷のオーナーが奴隷制を正当化するために、「黒人は危険だ」といった理論を作ったがために、肌の色での差別が生まれた。そして、それがテレビなどを通じて広まっていったのである。

ここで、イギリスの産業革命が起こる。それにより綿花の需要が高まったため、さらにアメリカから黒人を連れてきて、アメリカの南部に奴隷が増えることとなる。ここで、奴隷が反乱しないように対策が練られる

(例)
奴隷主が奴隷を殺しても罪には問われない→奴隷は所持物であり、人権がないので罪に問われない。
黒人と白人の結婚を禁止→人種の優劣
親子や出身部族を引き離す→コミュニケーション阻止
女性の奴隷から生まれた子供は奴隷→強姦の日常化、子供を殺める母親も

流石に人道的ではなさすぎると、奴隷制廃止をめぐり、南北戦争が起こる(1861-1865)南は奴隷制を維持したい 北は廃止したいという立場をとった。ここで一部の奴隷が解放され、250年続いた奴隷制はようやく終わりに向かう。

1619年、20人の黒人が、ヴァージニアタウンに連れてこられて以降はじまった奴隷制度は、形式上リンカーン大統領の奴隷廃止法(1863)で終わったが、実際の白人優位の社会体制は続いていた。

1876-1964 ジム・クロウ法によって差別が合法化される。主に黒人の公共施設の使用を禁止、制限する法律であった。黒人との混血や黄色人種も対象とされた。これらは今よりたった50年前の話黒人というだけで職につけないし、逮捕されて働かされるとかが普通にあった。日本に生きていると身近に感じないけれど、こんな歴史もあったんですね。

1955年(HipHopの創立者と言われるDJ Kool Hercがジャマイカで生まれた年)
黒人女性のRosa Parksさんが白人に席を譲ることを拒否したことで逮捕された。

この事件をきっかけに、溜まっていた黒人のフラストレーションは発散され、黒人の街アトランタで生まれたキング牧師の元、平等な扱い、雇用や教育、住居など 基本的な人権を求める公民権運動となった。

一例として、暴力なしでこの問題を解決しようと、Sit-in という、レストランで料理が出てくるまで座り込むことをした。根比べですね。(有色人種には食事が提供されないことがあったから。)そしてこの運動は全国に広がったが、座っているだけなのに逮捕されたり、リンチされたり、警察が消防車のホースで座り込む黒人に水をかける事件などが勃発。この事件が全国に新聞やテレビで広まり黒人の怒りは頂点に達する。

そして、非暴力の抵抗を続けて8年が立ち、数十万人が参加した、ワシントン大行進が起こる(1963)ここでキング牧師のスピーチが生まれる。

この時のケネディー大統領は人種差別を終わらせようとキング牧師をサポートしていた(黒人の政府雇用とか、ジムクロウ法の撤廃宣言とか)が、1963年に暗殺。

キング牧師も1968年に暗殺される。副大統領だったジョンソンが大統領に就任し、公民権法、投票権法を制定し1965〜黒人が初めて法的に平等になる。

この年、一番初のラップと言われるモハメド・アリの名言Float like a butterfly, sting like a bee. が生まれる。(蝶のように飛び、蜂のように指す。)Ice cube とかMigos の歌詞にも出てくる

・FUNKの誕生

FUNK =泥臭さ 悪臭を表し
Nワードと同じく黒人に吐かれた暴言を表す言葉で
あえてそのネームングをする事で黒人たちは団結した。
ジャズ, R&B, ソウルの要素を組み合わせた、ノリやすく、ダンス向けに開発された音楽である。

・James Brown

1960年代中頃からファンクを
生み出したFUNK Musicの生みの親である
"Godfather of Soul", "Mr. Dynamite"などの名前で呼ばれる
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より深くDigれれば以下に書いていきます

・The Beatles

多分伝説的に有名だけど全然詳しくないので後で調べます
1960年代中盤、James BrownがFUNKを作ったぐらいと同時期に、イギリスのロックバンドThe Beatlesがイギリス出身なのに、アメリカのチャートで一位を取る。その、ポールマッカートニーがずっと追いかけていたのが
米シアトルのギタリスト Jimi Hendrix である。

・Jimi Hendrix

ポールマッカートニーがずっと追いかけていた人物であり
米シアトルのギタリストである。
サイケデリックなギターが特徴だった。(1960年台後半が全盛期)
ロックはまだ詳しくないのですが、ロック界では伝説の人っぽいので後で調べます

・P-FUNKの誕生

・George Clinton

Jimi Hendrix のサイケデリックな要素をFUNKに掛け合わせた新たなジャンル「P-FUNK」を編み出した(80年代初期にピークに)
このP-FUNKをDreがサンプリングしまくった結果、Travis やKendrickの代にまで伝わっている。そして現在のHIPHOPのフェスにも呼ばれている。

“Atomic Dog” George Clinton をサンプリングした
“Who Am I “ Snoop Dog (feat Dre)
MVも面白いので是非見てください (因むとWho Am I のSnoopの顔が犬になる絵がハーフタイムショーで飾られたりしてる)

“I’d Rather Be With You“ Bootsy Collins (prod George Clinton)"
をサンプリングした
“Red Bone ” Childish Gambino"

・HIPHOPの誕生

・ブラックパンサー党

1960年代中盤〜 黒人はFUNKとPFUNKなどの音楽を発展させていた。ただし、法的には平等であっても、ひどい扱いをされたままであった。
キング牧師(〜1968) マルコムX( 〜1965) の暗殺を受けて、警察から自分たちを守る自衛組織として、ブラックパンサー党がカリフォルニアで誕生する。そしてサンフランシスコから、真逆にあるNYにまで、支部ができる。

NY支部の幹部が、2Pacの実の母親のAfeni Shakur だった。また、父もNY支部だった 叔母 Assata Shakur も同じくブラックパンサー党だったが、FBIに目をつけられて逮捕され終身刑になるも、脱獄して、キューバへ亡命する。これが、2Pacがキューバでまだ生きてる説の根源に。

・サウスブロンクス

70年代初期 (2Pacの母が人権運動を率いていた時)
多くの黒人や移民がいる、NYのサウスブロンクスは、都市開発(横断鉄道など)の影響で、工場や事業が撤退していき、職を失った労働者階級が大量発生するも、政府が何も対策を講じなかったため、強盗や殺人など、治安は悪化していく。(地主が保険を回収する為に、居住者を脅すとか、ギャングの始まりになる様なことも)

そのSouth Bronxにおいて1973年 8/11ジャマイカ系移民のDJ Kool Herc が自分達が住んでたアパートで、妹の誕生日会を行う。それをきっかけにHIPHOPが誕生する。都市部のクラブでは、ディスコミュージックが流行っていたのに対し、彼は流行に逆らって、James Brownといった黒人音楽のルーツであるハードなファンクをかけていた。

彼は、曲の間のつなぎのブレイク部分
(ファンクやR&Bの曲にあるドラムの間奏パートで、重低音がテンポ良くなる部分)の方が、みんなのノリがいいことに気づき、2枚のレコードを2つのターンテーブルで繋ぎ、ブレイクの部分を流し続けるメリーゴーランドと呼ばれるスタイルを確立した。このブレイク中に踊って盛り上げていたのが、B-boy B-girl であり、今のブレイクダンスの起源になっている。

また、DJ Kool Herk の友人 、Coke La Rock にマイクで客をいじったりして、パーティーを盛り上げてもらっていた。これがMCの始まりであり、Kool Herkは、HIPHOPの創始者。Coke La Rockは最初のMCとなる。そして、このKool Herkのパーティーにいた3人が、さらにHIPHOPを成長させていく。

・DJ Kool Herc

ジャマイカ出身のHIPHOPの祖
“HIPHOP界のゴッドファーザー”とも言われる大物
治安荒れ荒れのNYブロンクスに引っ越した彼は、高校時代父に買ってもらったJames Brown(FUNKの開拓者の人)のアルバム、Sex Machineを友達と集まって聴き込み、妹と新学期パーティーとかをするようになる。
それを機にサウンドシステムを入手した彼は、当時ダンスミュージックが主体だったディスコでジェームス・ブラウンの「Give It Up Or Turnit A Loose」など、ゴリゴリのFUNKをかけていきそれが受け入れられ地元で売れていった。

1973 8/11 妹の誕生日会のためのパーティーで、彼は曲のブレイク部分を取り出す。当時パーティーでは、円になった人たちの中央で、このブレイクの部分で踊るB-Boy/Girlと呼ばれるダンサーがいた。
彼らが踊るところが盛り上がることに気づいたKool Hercは
後にメリーゴーランドと呼ばれる、曲のブレイク部分をかけ続けるDJスタイルを確立する。これが1520セグウィック通りでのHIPHOPの誕生である。
また、Breakに対して、「興奮すること」「パワー全快でいること」「混乱を起こす事」などの意味を持たせたスラングとしたのも彼である。

そして、これから記す後のDJ達に大きな影響を与えている。ブロンクスのギャング達に音楽という新しい構成プログラムを与えたのである。
余談 113kgを25rep上げるとか、セントラルパークまで往復16kmチャリ漕ぐとか意外とフィジカルモンスターだったらしい

・Coke La Rock

DJ Kool Hercのパートナーで最初のMC
中学時代、グラフィティで有名だった一個上のHercと知り合った。そしてMCになる前はHercのパーティーでWeedを売り捌いてた
未成熟児だったからミルクに母がCocoを入れていたからCokeであり、La Rockの部分は夢の中で出てきたメキシコ人に名付けられたらしい(意味不すぎるw)

Hercとともに、路上に機材を持ち出しパフォーマンスをしていたという。これが路上HIPHOPの始まりである。

学校でパーティーをやったら暴動が起きると思って警察が来たとか、常に機材を盗まれないように、銃を持った警備員をステージに置いてたとか、クラブでよく喧嘩した黒人が死んでいたとか、そんな治安の悪い中、新しい何かが始まろうとしている感じがしますね。

・Afrika Bambaataa

・DJ Kool HercのパーティーにいたHIPHOP3大DJの1人
・NY一大ギャングの親分だったが、暴力的な彼らをまとめ音楽に打ち込ませた。
・HIPHOPの名付け親
・エレクトロミュージックの開拓者
10代の初め、戦争映画好きだった彼は地元のギャングに引き抜かれる。そして、そのグループをNY最大のギャングBlack Spadesにまで大きくし、結成者かつ長となる。

また学問にも励んでおり、小論文コンテストに優勝して得た賞品でアフリカ旅行に行き、そこでズールー族の結成力を見る。
そこで同じアフリカ人の自分達が暴力的である現状をなんとかしようと考える。
そこで影響を受けた彼は自分の名前をAfrika Bambaataaに改名し、Black SpadesをUniversal Zulu Nationというグループに改名する。

そして、ブロンクス周辺の数々のギャングの中で、一番信頼が厚かった彼は、なんとか自分達が犯罪に走らないように、NYの色々なギャングを集めて話し合わせ、自分のUniversal Zulu Nationに引き込んでいったのである。
Universal Zulu Nationは、愛 平和 団結 喜び をモットーとしている。

彼はDJ・MC・ ブレイクダンス・グラフィティを4大要素とし、それをHIPHOPと名付けた親である。
それに加え、知識;自分たちのルーツを知る 勉強し人に騙されない 物事を理解する事をHIPHOP5大目の要素として追加した。
また後にアパルトヘイトに対する活動に取り組んだりしている。
シンセサイザーの音を取り入れた、Planet Rockという曲が大ヒットしエレクトロヒップホップという新ジャンルの開拓者にもなった

・The Grand Master Flash

ヒップホップ黎明期3大DJの1人
今までDJのミスだと思われていたスクラッチ音をあえて取り入れ、スクラッチ,バックスピン,Punch phrasing というDJテクニックやミキシングといった技法を広めた。

Grandmaster Flash and the Furious Fiveと呼ばれるグループを結成する。
そして、盛り上げの脇役とされていた、Rapper5人をDJの前に出すことで、DJが後ろに立ち、前でラッパーがラップをするという今と同じスタイルが確立される。 

そのうちの1人 Keith “Cowboy” Wiggins が、HIPHOPという言葉を作り、自分たちの音楽に名付けた。それを受けて、Afrika Bambaataaが、Zulu Nationの活動を一括して、HIPHOPと名付けた。
若者のゲトーでの暮らしの苦しさをラップした曲「The Message」は、初のメッセージ性をこめられたラップの曲であり、NYを中心に50万枚が売り上げられた。

以下の曲でサンプルされている。

・Fab 5 Freddy

水面下でHIPHOPを広めた人
グラフィティからダンサーや、白人のパンクロッカー達などと多方面で人脈が豊富
その人脈を使いHIPHOPを広めた重要人物である
後にYo!MTV Raps の司会を務める

・Marley Marl


JazzやFUNKも作曲で密かに使われていた、サンプリングを、HIPHOPの重要な作曲要素として取り入れる。(サンプリング;既存の曲の一部を切り取って使ったり、独自のドラム音を加えて新しい曲に作り替える。)

これにより、ゲトーの黒人がストレスの矛先をギャングと犯罪ではなく、音楽とダンスに回すことができる様になった。HIPHOPはいわば黒人達が平和に暮らすことを目指した更生プログラムの一つであった。


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