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THE HISTORY OF HIPHOP Vol.3

謝辞
この記事は、以下のShama Station様の動画 [HIPHOPの歴史] のメモを元にしております。そのメモに個人的に調べた注釈を付け加えたものとなります。
この場において日頃参考にさせて頂いている、Shama Station様に心より感謝申し上げます。

・2大ギャング派閥

・Crips

青を基調とするCrips

アメリカ全土を牛耳る2大ギャング派閥の1つ
3万5千人の構成員を擁し、青を基調としている。
ゲトーを生き抜くには、生活と保身の為にギャングに所属するしかなかったのである。
所属している有名アーティストは
Ice-T / Eazy-E / Ice Cube / MC Ren / Warren G/
Nate Dogg/ Snoop Dogg / Nipsey Hussle / Pop Smoke / Blueface / NLE Choppa/ Robby Rich
Schoolboy Q などなど

Ice-T
Ice Cube
Cのハンドサインを出すSnoop
Nipsey Hussle
Pop Smoke
Blue Face

1969年 カルフォルニア州ロサンゼルスで結成されたストリートギャングであり、アメリカ全土に勢力を伸ばし、現在は3万人から3万5千人の構成員を擁する。個々の地域ごとに「セット」と呼ばれる下位集団があるが、全てを取りまとめる長のようなものはなく個々で活動している。

創立者はレイモンド・ワシントンとスタンリー・ウィリアムズの2人。ワシントンは後にメンバー内の抗争で射殺。
スタンリーは、殺人罪で死刑になる。そこで改心し反ギャング活動を行い、ノーベル平和賞に何度もノミネートされる。ただアーノルドシュワルツネッガー(!!!)知人から減刑はされず、死刑執行となった。
元々は以前紹介したPolice Brutality、黒人差別に対抗するブラックパンサー党の格好を真似た、黒レザージャケット、左耳ピアスに杖というスタイルであったが、なくなった初期メンバーが好きだった青を基調としたバンダナやオンブレチェックのシャツ、スニーカーなどを着る様になった。

1970年代に創設メンバーが次々逮捕されると、クリップス内部の抗争
(創立者 対 若いメンバー)が起こるようになった。
1980年代には低価格で手軽なコカイン、クラックが大ブームとなり、ドラッグ取引や違法な武器の売買で得た利益を元に急速に拡大し、アリゾナ州、ネバダ州、ワシントン州、オレゴン州、テキサス州、テネシー州、フロリダ州、さらにカナダのバンクーバーにも進出した。
手でCを作るギャングサインや、対抗ギャングに勝利した時に踊るCウォークといった文化がある。

ゲトーを生き抜くには、ギャング/ドラッグディーラー/ラッパー/ DJ になるしかなかったと言われるほどの現状であり、生活と保身のためにギャングに入るものが多かった。
中にはギャングに憧れて入るものもいるが、実際入ると世界が逆転し逃げたくとも逃げられない現状となるらしい。
(Ice-Tのインタビュー曰く)

・Bloods

赤を基調とするBloods

Cripsに対抗して結成されたギャング 赤を基調とする
所属有名アーティスト
The Game/ Chris Brown/ Lil wayne/ Gucci Mane/ Young Thug
Tekashi 69/ Trippie Redd/ Cardi B/ Shug Night

The Game
Chris Brown
Lil Wayne
Gucci Mane
Young Thug
Tekashi 69
Trippie Redd
Cardi B

拡大していくCripsに脅かされていた各地のギャングたちが集まり、Cripsに対抗するために1972年に結成した。若い黒人ギャングを指すYoung Bloodが語源説と
ベトナム戦争帰還兵が互いをBloods(Brotherの訛り)説がある。

コンプトン「compton」を「bompton」と表記したり、crazyをbrazyと言ったり、ブラッズ出身のDJ Quikも、QuickからCをとっている。これはcを嫌うBloodsの文化である。Young Thugの1stアルバムのタイトルもcがbになっている

また、クリップスがバンダナをズボンの左側に垂らすのに対し、ブラッズはズボンの右側に垂らす。
Cウォークに対応したBウォークもある

・西海岸ベイサイド

・Too Short

Too Short 

西海岸のベイサイドを代表する女ったらしを売りにするベテランラッパー
1980年代まだ西海岸にNYのラップ曲しか存在しなかった時代、
Daft Punkに影響を受けて、音楽への道を進む。
90年代初期(目安としてはIce cube がLAのNWAを脱退し、NWAがNiggaz 4 Life をリリースした後ぐらい)、LAの上のベイサイドからヒットする。女ったらしキャラでビルボード1位を取り、ラッパーはチャラいというイメージを生み出す。

以下の曲でサンプルされてるね

・MC Hammer

1990年前後に一世を風靡したラッパー

MC Hammer

元はプロ野球選手を目指していたが海軍に入隊し、その後にラッパーに転身した。
1988年、1stアルバムLet's Get It Startedを大ヒット。
MVで見せる華麗なストリートダンスで世間を沸かせた。
"U can’t touch this” で大ブレイクする。(1990)
社会現象のダンスとなり、HIPHOPを一番世界で広めたタッパーとなる。

「super freak」(リック・ジェームスの楽曲)をサンプリング
2022年のNickiのヒット曲にも受け継がれる

「Have you seen her」
日本においても彼の髪型や服装、ダンスのスタイルを真似した「ハマ男」(はまお)がボビー・ブラウンの「ボビ男」とともにブームになった。いや誰だよw

日本で流行ったハマオらしいw

1996年4月3日には人気低迷し自己破産を申請している。
稼いだお金を遊びすぎて全部自分で使い切ったとかw

・Digital Underground

2Pacが所属していたおちゃらけ系のユニット

Digital Underground

気の抜けたようなP-FUNKサウンドを主体としている。
90年代前半にMC Hammer、Too Shortyと同じベイサイドのエリアから出てきて、HIPHOPの怖くない面を見せていく。
1987年、Jimi “Chopmaster J” Dright と Kenneth “Kenny-K” Waters と共に結成された。MC/Producer として活躍した Shock G は、大きな付け鼻をした "Humpty Hump(ハンプティ・ハンプ)" のキャラで最も知られている。

中心の鼻がでかいのがShock G

また、Shock GPrince、Dr. Dre、Murs、KRS-Oneらのアーティストとも数十年に渡ってサポートし合ってきた。
2nd アルバム『Sons of the P』で George Clinton とコラボしている。

ここからあの伝説 “2Pac”がデビューする。
家族と一緒にLAに引っ越してきて、Digital Undergroundでデビューした。
“Same Song” (1991) -Digital Underground
若い日の2Pacが出ている。

だが、方向性の違いからすぐに脱退しその年の年末に
INTERSCOPE RECORDS から、ソロデビュー作
“2 Pacalypse Now”をリリース(1991)

警察の黒人に対する非行だけではなく、女性の抱える社会問題も代弁し、弱い立場の人々のヒーローとして、支持を得ていく。
“Brenda’s Got A Baby” – 2Pac
“Trapped” – 2Pac

・HIPHOPとソウルとの融合

・Mary J. Blige

HIPHOPとソウルを融合させた分野を開拓する。

Mary J. Blige

1971年サウスブロンクス生まれ 7歳の頃聖歌隊で歌っていた
1987 16歳の頃に撮ったデモテープがUptown Recordsのアンドレ・ハレルに渡って、即契約が決まる。
1992 You Remind Meでソロデビューする。メアリー独特の憂いや哀しみを帯びたアルトボイスから醸し出されるある種危険な香りのする歌唱スタイルに多くの男性ファンができ、デビューアルバムを出すまでは早かった。

1992 アルバム「What‘s the 411?」をリリース 411は米国向け電話案内サービスGOOG-411に由来

ストリート感に溢れた歌声が、落ち着いたR&Bを超えた乗り心地を与えた。
1994 2ndアルバム「My Life」
70年台のR&Bを意識して作られて、Maryの苦悩が書かれている
プロデューサーのパフダディとの確執もあった。

3rdアルバム「Shere My World」のEverythingでは坂本九の上を向いて歩こうのメロディーラインを採用

2002 Love&Life
P.Daddyとと仲違いしていたが、プロデュースを任せ、P.Daddyと傘下のBad boys やDr.DREが集まった。
昨年のスーパーボールでは、家族でパーティーを開く曲を家族問題Family Affirと題した曲を歌い 圧巻のパフォーマンスでした

全身ティファニーの衣装だったとか
数多くの人とコラボしててすご過ぎて計り知れません

・Celine Dion

Celine Dion

1968 カナダ出身で母国語はフランス語だった。
12歳の頃にデモテープでプロ歌手契約。
1987 1stアルバム「Incignito」をリリース エルトンジョンにセリーヌのために曲を書いてみたいと言わせるぐらい凄かった。

1990 英語を学ぶ。
1992 DisneyのBeauty and the Beastで世界的にヒット

ピーボーブライソンとのデュエット(この曲最近アリアナとジョンレジェンドがデュエットしてるけど、元々こことかガチで熱い)

1997 Let‘s Talk about Love
タイタニックが公開されMy Heart Will Go Onもヒット

20歳年の離れた、プロデューサーの夫の死以降暫く表舞台を去っていたが、最近は派手なファッションで表舞台に出るように。今は難病のスティッフパーソン病を患ってしまっている。

現在のCeline Dion

・HIPHOPとWEED

・Cypress Hill

Cypress Hill

1992 カルフォルニアのラテン系のHIPHOPユニット、Cypress Hill は、まだ違法だったにも関わらず、MTVにおいてWeedを吸うなど大麻合法化に対し積極的に動いていた。麻薬戦争の真っ只中だった彼らは、政府が科学的根拠なしにWeedについて間違った情報を提示して洗脳していると、命懸けで、国民に訴えたのである。

Cypress Hill
1992年頃から、ロック×HIPHOPのスタイルと共に、マリファナ合法化を目指したアーティスト。(復習: ロック×HIPHOPは、Run-DMCが生み出し、Beastie Boys等を通じて白人層に広まっていった)
また、ラテン系メンバーにより、ラテン×HIPHOPを開拓した。
中心となる人物は、MCのSen・Dogで、歌詞には英語とスペイン語を含む
メンバーのB-Realはブラッズに所属していたが、音楽の道にいたため、そこまで深入りしないで済む。
1991年のダブル・プラチナ・アルバム『Cypress Hill』や、1993年のトリプルプラチナ作品にして、グラミー賞に3度もノミネートされた『Black Sunday』などの代表作も有名です。

Cypress Hill

1991 Cypress Hill より。2Pacが出演したJuiceにも使われた曲

1993 Black Sundayより

2002 Low leider

2019 Hollywood Walk of Fameに初の殿堂入りしたHIPHOPアーティストとなるMarijuanaとは、メキシコ人の母国語であるスペイン語でマリファナを意味するスラングのMary Janeを発音したものである。政府は違法である大麻をマリファナと呼ぶことで、メキシコ人のものだと思わせ、メキシコ人のイメージまでダウンさせた。それらの偏見なしでは、Weed, Pot, Ganja 上質なものは、Chronicと呼ばれる。
こうした動きから、クラック同様にWeedに対する刑罰も強化された。たった500円相当の量で、15年、再犯の場合は終身刑とされる法律もできていた。
The Chronicのジャケ写は、Weedを巻くときのタバコの巻紙のブランドをモチーフにされている。
Dre, Snoop, Cypress Hill RedmanはWeedの合法化に大きく貢献していった。それに伴いHIPHOP=ウィードのイメージが強まっていったのである。彼らは危険性の高いクラックからWeedに人々を誘導していく事で、人々を危険なドラッグから遠ざけようとしたのである。
1920年頃に、国際的に大麻取締法ができてから、ジャズの大物ミュージシャンが大量に逮捕され、ジャズが衰退する。ルイ・アームストロングや、ボブ・マーリーらはSnoop達より、ずっと前の時代に合法化を目指して活動してきた先輩である。

・ギャングスタ最盛期

・DJ Quik

コンプトンを代表する、Dre以前にG-Funkの基礎を築いていたラッパー

1991 デビューアルバム
「Quik is the name」 DreのThe Chronic以前のコンプトンサウンドとは異なり、レイドバックしてファンキーなスタイルとなっている。

全曲自分でプロデュースしており、プロデューサーとしての腕もよく、2nd II None、Snoop Dogg、Dr. Dre、2Pac、Suga Free、Jayなどの曲も手がける。
1992年に彼がブラッズに所属することをラップして以降、自身の所属するギャングを曲で表明する動きが生まれる。
最近は同じくコンプトン出身のラッパー「problem」と一緒にEPを制作している。

・1992「The chronic」

現代のHIPHOPに多大な影響を与えるDreのソロデビューアルバム

90年代初頭、NY ラッパーはアーティストとして見られていたが、LA ラッパーはギャング抗争をしている危ないやつとして見られていた。
NWAの活動拠点にもなっていた、EAZY-Eのレコーズである、Ruthless Records に所属する、Above the Lawが ”Vocally Pimpin’”(1991)で、従来のFUNKをスローダウンさせたサウンドを開発し、それがDre に伝授される。

そこでリリースされたのが、Dreのデビューアルバムである
“The Chronic” (1992) である。
Gangster Rap ×Funk= G-Funkを開拓する。
スローなFunkにハイピッチな、シンセサイザーの音を乗せた。(Snoop曰くGはゲトーのG) 東に比べ車社会の西海岸において、車でゆったりと聴ける音作りを目指されたのである。

そうして、リリックはギャングスタなのに、ゆったりとしたビートや、SnoopのレイドバックしたRapスタイルのおかげで聴きやすい仕上がりになり、普段はHIPHOPを聞かない層にも聴きやすくなった。また、車で移動するアメリカ全土の白人層にも広く受け入れられた。
そうしてG-Funkの音はWest Coastの穏やかな雰囲気を表す象徴的なサウンドになったのである。それに加え、billboard 3位を記録したこのアルバムによって、ギャングスタラップはついにメインストリームへ上り詰める。

The Chronic の痕跡は、G-FUNKだけではなく、クラックなどの危険なドラッグが流行っていたLAにおいても、ゆっくりWeedでも吸いながら、楽しくやっていこうぜ。っていうメッセージを与え、LAのゲトーの人の気持ちにゆとりを持たせた。

Dreは生演奏の楽器の音を多く使用した事で、サンプリングを主体とした古い音にフレッシュさを加えたのである。N.W.A.でも生楽器は使用していたが、今回のアルバムではよりそれが際立っている。

The Chronicは至高のマリファナを表すスラングで、N.W.A.時代は吸わなかったDreもSnoopがスタジオを出入りするようになってからマリファナを嗜むようになったという。
アルバム一曲目のThe Chronic (Intro)ではDreはSnoopと共にEazyとマネージャーのJerry ヘラーのことをディスっている。(Snoopは実はEazyのファンだったとか)。アルバムの2曲目でも派手にEazy-Eの事をディスっている。そしてこれからDreの快進撃が始まる事を伝えている。
このアルバムが西海岸HIPHOPを盛り上がらせた為、2年後にそれに対抗する東海岸のHIPHOPとして、Nasのillumaticが生まれる。その為東海岸は西より10年遅れていると言われていた。

このアルバムを通したビーフに対し、Eazyは1993年にリリースしたEP「It’s On (Dr. Dre) 187um Killa」で対抗。
187は警察が殺人を表すコードで、イントロでは「The Chronic (Intro)」 をパロディして、“Real Muthaphuckkin G’s”では SnoopとDreを偽のギャングスタと言っている。
Dreはこの時まだEazyのRuthless Recordsとの契約が残っており、Dreの売り上げの一部はEazyに入った為、Dre Day only make Eazy’s pay dayとディスられていた。
SnoopはThe ChronicでEazy-Eをディスったが、本当は尊敬しており、レーベルの対立に便乗してEazyをディスった状態で、Eazyが亡くなってしまった事を後悔しているという。以降、P. Diddy, Biggie vs 2 Pacの時は両者に中立的な立場にいた。このことが対立をより複雑にしたのだが。。
このアルバムはDeathrowとInterscopeの両方から出されている。

・Snoop Dogg

こんなイケオジいないでしょ。まじで。

イケおじ Snoop

1971生まれ カルフォルニア ロングビーチ出身
1990 Dreの甥のWarrenG, Snoopの従兄弟のNate Doggと共にユニット213を結成。この頃のデモテープは2000本売れたとか。
1992 Dreの目に止まり、ソロデビューシングル“Deep Cover”をリリース。

Deathrow Recordsと契約し、Dreのファーストアルバム「The Chronic」に参加
一躍有名になり、アルバムを聞いた人がSnoopの声に釘付けになる。
そうして、Snoopのソロアルバムへの期待が高まり、ついに

・1993「The Doggystyle」

をリリース。同年に拳銃を用いた殺人事件で捕まり裁判に時間を取られる。3年後に正当防衛で無罪に。

The Chronicと共にG-Funkを代表する伝説のアルバム
アートワークにはFUNKへのリスペクトが込められており、塀の上から覗いている犬たちはGeorge ClintonのAtomic Doggの歌詞となっている。
女性軽視の歌詞が批判を受けたりする。
詳しく歌詞はまだ見てないけど、Snoopって昔こんなに尖ってたんだね

1995年の『The Source Awards』でお前らは西海岸のことを愛してないのか!と発言し東西戦争を引き起こすきっかけとなる。(後に詳しく)
1996 2ndアルバム「The Doggfather」をリリースし
Deathrowとの契約を解消。このアルバムはすぐ後に亡くなった2Pacへの追悼を含む。
1998 Master Pの「No Limit Records」と契約
ここでビジネスを学ぶ。
2004 “Drop Like It’s Hot”でbillboardHOT100で1位

2012 エンタメ用の芸名はSnoop Lionにすると発表
実は料理が得意で料理本を出したり、子供に対しフットボールのコーチをしたり、昔の悪名高きSnoopがおじさんとして別の姿を見せている。こう言ったチャリティは2Pacと行おうと話していた様で、亡き彼の意志を継いでいる。
2015 Pharrel Williamsと手を組んだアルバム「Bush」は今までとは全く異なるゴリゴリのFUNKサウンドである。
客演は豪華である。

2016 インタビューで近年のラッパーはみんな三連符のTrapに似た曲が多い。自分がここまで来れたのはオリジナリティがあったからだと一括w。
馬鹿にしてるのがほんとにおもろいw

故郷LBC(ロングビーチ)のギャングCripsに所属していたSnoopだが、若い人の援助に力を注ぐため地元の老人への金銭的援助を中止したところLBCを長老会から出禁にされる。

・E-40

West coastのベイサイドを代表し多くのフローやスラングを生み出した。ボキャブラリーが豊富で嵐の様にラップする。

E-40

1995 In the major wayが有名

2Pac、B-Legit、Mac Shawn、Spice 1、 Mac Mall、Levitti、そして妹のSuga-Tなどのアーティストをフィーチャリングしている。
17歳で40オンスのビールを毎日4本以上飲んでたからこの名前らしい

アルバム・カバーは「E-40が 時計の中でコカインを製造している」という内容

1992 2Pacが「Juice」に主演として出演し、ハリウッドスターになる。
この名前はのちにJuice WRLDの名前の由来になる。

Juice

・当時のNY

・1992 "What's the 411?"

NYのアンドレ・ハレルのuptown recordsでインターンをしていた
Puff Daddyが、Mary J. Bligeのファーストアルバム”What’s the 411?”で、
ソウルとHIPHOPを見事に掛け合わせたアルバムを手がける。これをきっかけに、プロデューサーとして有名になり、 HIPHOPソウルやHIPHOP R&Bのスタイルがのちに、たくさん出てくるようになる。(BeyonceやRihannaに引き継がれる)
こうしてG-Funkで盛り上がっていたL.A.に対してNYもHIPHOP発祥の地の名をかけて、成長していく"

・WU-TANG クラン

Doggy Style が出された1993年、NYの端からは、個性はスーパーグループのWU-TANGクランが現れる。

彼らは斬新なスタイルやファッション、自分たちのWebサイトを立ち上げるなど、数多くの先進を遂げてきた。

M.O.P / Gang Starr/ Mobb Deep などが出てきたのだが、Snoopのように全米に衝撃を与えるようなスーパースターは不在であり、NYは焦っていた。

M.O.P.
Gang Starr
Mobb Deep

・1994 ”Illmatic”

そんな新進気鋭のラッパーが現れなかったNYで、当時19歳だったNASが”Illmatic”をリリースする。

1994 ”Illmatic”

NYのゲトーの現実を巧みに伝えたこのアルバムはHIPHOPの完成系と言われ、
やはりHIPHOPならNYだと、世間を頷かせた。それにその巧みなリリックは、改めてリリックの重要性を説いた。

・NAS

NYのアングラが生んだラッパーで、今もなおHIPHOPの最前線を率いていくLiving Legend

NAS

1973 ブルックリンで生まれクイーンズブリッジ団地で育つ。父はミシシッピ出身のジャズミュージシャンOlu Dara. Nasの名前の由来のNairはアラビア語で救うもの、守るものを意味する。
Nasは父の影響で子供の時からトランペットなどを演奏し、その時に音楽がユニバーサルな言語であると知る。
Nasは10代になると友人からHIPHOPを聞かせてもらった影響でKid Waveというなのもと、ライムを書くようになる。8年生で学校を中退し、ドラッグディーラーになるが、聖書やイスラム教書を熟読し、勉強を続ける。

1994 19歳でファーストアルバム illumaticをリリース
NYを率いるLarge ProfessorやPete Rock、DJ・Premier、Q-Tipら当時のニューヨークの有名プロデューサーを集めて作られた。
ここで西高東低だったHIPHOP界を一転させる。
Trackmasters Entertainment、Dr.Dre、らを製作陣に新たに加え、R&Bのテイストを増した2作目のアルバム「ItWas Written」もヒット

1997年、Dr.Dreがメインプロデューサーとなり、Foxy Brown、Az、Cormegaと共にヒップホップ グループ、The Firmとして『The Album』をリリースします。しかし大ヒットとはならず、また、メンバー間のいざこざも多く、このグループは単発に終わる
その後のアルバムはまた機会があれば。

1996 NasがJay-Zのファーストアルバムへの参加を断り、そこで生まれたビーフは2005年まで続いた。2020年にも新作をリリースしたが、これも一切の衰えを見せずにヒットしている。

この頃、ビルクリントン大統領により、新しく約60個もの犯罪が死刑対象になった(1994年)アメリカ史上最悪の政府の政策である。よって、刑務所を新たに作り直さなければいけないほどの逮捕者が出た。この結果、この時代に生まれた黒人のほとんどが、片親か両親がいない状態になった。

NASの出現に対抗するように、LAからはWarren Gが、G-FUNKのリリックをもっとソフトにしたような、”Regulate…G Funk Era”をリリース(1994)

1994 ”Regulate…G Funk Era” 

R&B HIPHOPのチャートで1位を記録
Warren Gはスーパースター的な人気を得たこともあり、G-FUNKは一種の神格化されたような音楽となった。




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