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空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ

全力で愛を捧げて、それでも人生を一緒に歩くことができなかった、かつての恋人たちに、共通する何かしらかの項目があるのならば、それがきっと僕たちの業というものです。

たとえば、恋人たちがみんな、末っ子だったとか、長男だったとか、お姉ちゃんがいたとか、お兄ちゃんがいたとか、片親だったとか、年下だったとか、年上だったとか、二世帯住宅で過ごしていたとか、団地で過ごしていたとか、車が必要な地方都市の出身だったとか、海外で生まれたもしくは育ったとか、バンドマンだったとか、劇団員だったとか、食べることに関してあまり興味を持たない人だったとか、パスタだけは作ってくれたとか、指の太さが同じくらいだとか、エトセトラ、エトセトラ。どのようなことでもいいのです。

彼女たち、あるいは彼らに、暗渠のように深く強く流れる共通する何かがあれば、それが僕たちの意識しない、あるいは意識できない欲求なのでしょう。そして、僕たちはそのようなものに、強く動かされているように思います。


四人囃子というフュージョンのバンドの、僕は熱心なファンではないのですが、それでも、今でも魂を動揺させる曲がいくつかあります。
なかでも標題の「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」は強く僕をノックします。誰でも、ティーンのときに耳から入ったものはその人の核を作るものになりますが(「二十歳の原点」を作ったというとそれは誇張がすぎるのですけれども)、サウンドたちが僕を通り抜ける前に、確かに残った欠片が、今でもあるのです。

曲の中で、円盤から「映画に出たことのない人は乗せてあげられない」と告げられた兄弟は、それでも弟だけは映画に出たことがあったので、兄をススキの原に残し、円盤の人となります。

「映画」は「非現実」のメタファーで、「円盤」もまたそれを象徴しています。どうやら「映画に出たことのある人」というものは彼岸にいくことのできるチケットのようです。自分の中に非現実を持ったことのある人間、もしくは自分が非現実性の眷族であった可能性が、円盤に乗ることのできる資格者たりえるのです。

自分の中のファンタジーを正面から見つけることは難しい。
そして、それをやる必要すら、なかったりするのです。

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