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2014年の読書経験

 自分のために書き残しておくノートに、正確性を求めるときりがないけれど、たしか、あれは、2014年のはじめだとおもう。僕はキンドルを買った。

 プラットフォームとしてのキンドルは、いわばただの空っぽの箱で、そこには(本といってもいいけれど)コンテンツが入っていなくては、役には立たない。……はずなのだけれども、3Gの、あるいはWi-Fiの速度でe-inkのブラウジングなどは、男の子的なガジェット心をくすぐって、しばらくそれで遊んでいたりした。通信速度によってでなく、ハードウェアの描画速度によるタイムラグが楽しかったのを覚えている。
 そのキンドルは今でも現役で、真夜中に、どうしてもすぐに文章を確認しなくてはならない時などに、今もたまに役立っている。昨晩もそのようにして、手に取った。ついでに、ファイルの整理をしていて、過去に読んだコンテンツのタイトルたちを見ていて、思い出したことがある。

 この年は、巷(この場合は紙を主体とする出版業界、という狭い意味のもの)が、電子書籍というものにゴシップを飛ばしていたときで、つまりそれが2010年から数度くりかえされた、電子書籍元年の残滓だった。
 僕は、この新しい読書を経験したくて、24週間くらいの間、キンドルのみでコンテンツ(本)を読むという行為を完結させた。何を読みたいかを決めるのもクラウド上で行い、そのままアマゾンのガジェットで読む。似ているが異なる体験は、ジャメビュのようだ。
 結論から述べると、僕は本(特に小説)は紙で読んだほうが好きだと思った。だからそれ以降、キンドルでの読書は基本的にしていない。例外はもちろんあるし、これは二元論でもない。雑誌やマンガや実用書など、これもたくさんの要素があり、ひとくくりにしたくない。しかし、今は紙の本を好んで読んでいる。

 おもしろかったのは、キンドルに読書を限定した時の期間は、いつもよりも、たくさんの量の本を読むことができたということだ。体感として1.5倍以上の量を読んでいたように思う。この読書体験に近いものを僕は知っていて、それは、(もちろん紙の)「文学全集」を読んだときのものだ。
 本というものは、一冊一冊、体裁が異なる。判型も違うし、ページ数も行数も文字数も違う。活字の大きさも種類も違う。何から何までオリジナルのデザインだ。しかし、文学全集は収蔵を目的としているため、体裁がどの作品も揃っている。この、デザインが揃っているというのは、ことのほか読書のスピードを上げる。論文集が同じ体裁をとっているのも同じ目的なのだと思う。

 電子書籍は、底本が四六だろうと文庫だろうと、統一のフォーマットに流し込むという点がユニークで、まるで、この世のすべての書籍を全集のように扱っている。

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