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ソヨンによるニシャーダのためのカレーの話 著:土門蘭

 ソヨンは大学の同級生で、韓国から来た女の子だ。
 文学部国文学科という、日本の文芸作品を研究するその学科に、ソヨンは留学生として入学していた。ふっくらとした白いほおに丸めがねをかけ、小さな背中に重たそうなリュックサックを負っている。そこには、本や辞書が入っているようだった。
 よく学ぶ子だった。授業では、流暢な日本語ではきはきと発言した。決して遅刻をしないし、レポートを忘れることもなかった。居眠りしているところも、一度も見たことがない。
 ただ、春をすぎ、夏を迎えても、まだ友達はできていないようだった。サークルにも入っていないし、留学生同士で仲の良い子もいないみたいだ。授業が終わると図書館へ行くか、まっすぐ帰るかのどちらかだった。
 彼女は地味だけれど孤高だった。その孤高さに惹かれて、わたしは常に彼女のことを目で追っていた。

 一度、彼女が通訳しているところを見たことがある。
 夏休み前に行われた、大学のオープンキャンパスでのことだ。彼女は、留学を検討中の韓国の高校生のために、教授と彼らの間に立ち、にこやかに会話を手助けした。いや、それは手助けというレベルではなかった。彼女がいることで会話が通じるばかりか、その場にリラックスした雰囲気が生まれ、話しているうちにどんどん明るく和やかになった。その姿はいつもの地味で小さな、そしてどこか肩肘のはった彼女とはずいぶん違っていた。高校生はきっと、この大学に入ることを決心したのだろう。すっきりとした笑顔で、その場を去っていった。

「通訳、とても上手だね」
 ソヨンに話しかけるのは、それが初めてだった。
 だいたい、わたしは人に自分から近づくタイプではないのだ。友達がいないのはわたしだって同じだった。だけど、このとき話しかけたのは、別にソヨンと友達になりたいと思ったわけではない。ただ、彼女の通訳に感じたすばらしさを、彼女にちゃんと伝えたかっただけだった。
 ソヨンは本当に驚いたように、めがねの奥で目を丸くした。わたしは内心焦りながらも、勢いづいて言葉を続けた。
「わたしは通訳をしたこともないし、されたこともないから、見当はずれかもしれないけれど」
 ソヨンはじっと目を見て聞いている。
「あなたの通訳は、とても上手だな、と思った。通訳っていうのは、正しく言葉の意味を伝えることだけが、仕事ではないんだね。言葉のちがいを補うなにかを、通訳の人が生み出すことがあるのだなって、見ていて思った」
 そう言うと、ソヨンはにっこり笑って、「ありがとう」と言った。そして、
「あなたの言葉も、とってもいい。嘘が全然ひっついていない感じで」
 と言った。
 
 ソヨンは昔から、言葉の意味に「ひっつく」嘘にとても敏感らしい。
「意味に、嘘がひっつくの?」
「そう。意味に、嘘は存在しない。意味に、嘘がひっつくよ」
 通訳は、意味を違う言語に変換するシンプルな仕事だから、やっていて気持ちがいいのだそうだ。まるで嘘をこそぎ落とすみたいに。
「だからか」
 と、わたしは納得する。
「だからか。なにが?」
「だから、ソヨンが通訳すると、みんなリラックスするんだね。シンプルに意味がやりとりされるから」
 なるほどな、と頷いているわたしを、ソヨンはじっと見つめて、それから「ははは」と笑った。ソヨンの笑い声は、からだに似合わず大きくてはっきりしている。
「ユウコの言葉は、耳に、とっても気持ちがいいよ」
 そう言って、自分の耳を指さすのだった。

 耳が良いと言っても、絶対音感があるわけではない。だけどソヨンは、いい歌と悪い歌を判別するのは得意だった。
「売れるか、売れないかはわからないけれど」
 と彼女はいたずらっぽく笑う。だけど、いい歌はちゃんとわかるのだと言う。
 キャンパスの中庭から、軽音サークルやフォークソングサークルの子たちの演奏が聴こえてくるたび、わたしはソヨンに「あの歌はどう?」と尋ねた。
 顔を渋くして首を振ることがほとんどだったけれど、ごくまれに、
「あの子の歌は、なかなかいい」
 と言って、目を閉じることがあった。ソヨンがそうすると、その歌が光を帯びるみたいに聴こえてくるから不思議だった。わたしもつられて、一緒に目を閉じた。

 ある日、ソヨンが突然、
「天才がいる」
 と叫んだ。
 いつものように食堂の隅っこで昼食をとっていたときだ。「えっ?」とわたしが聞き返すよりも早く、ソヨンは立ち上がり、駆け出して行った。お盆の上には、ソヨンが食べていた盛岡冷麺(ソヨンは、韓国の冷麺みたいでおいしいとよく食べていた)が残ったままだ。わたしは自分の昼食もそこそこに、荷物だけ持って追いかけた。
 ソヨンは、食堂をすぐ出たところの広場で弾き語りをしている、青年の前に立っていた。青年もまた、異国から来た留学生のようだった。短い黒髭、大きな目。褐色の肌に、白いシャツがまぶしい。
 彼はアコースティックギターを弾きながら、聴いたことのない歌をうたっていた。どこの国の言葉だろうか。低くて静かな声だけど、直接お腹に響いてくるような、不思議な声だった。
 終わったとたんにソヨンはばちばちばちと大きな拍手をした。わたしもつられて拍手をする。立ち止まって聞いているのも、拍手をしているのも、わたしたちふたりだけで、彼は唇をへの字に曲げて、ぺこりと頭を下げた。

 彼の名前はニシャーダといった。スリランカ人だそうだ。本名はものすごく長くて、一度聞いただけでは覚えられなかった。同じ一年生で、経営学部にいるのだという。
「わたしも留学生です」
 ソヨンの言葉に、ニシャーダは驚いた。韓国出身だと話すと、「日本語が上手ですね」と感心していた。ソヨンは前のめりになる勢いで、「あなたこそ」と言った。
「あなたの歌は、とても美しい」
 ニシャーダはまた、唇をへの字に曲げた。照れたときの癖なのかもしれない。

 どうやらソヨンは、ニシャーダに一目惚れをしてしまったらしい。
「一目惚れじゃなくて、一耳惚れだね」
 食堂に戻りながら言ったら、「ああ! うまいことを言う」と褒められた。
「そんなにいい歌だった?」
「いい歌だった」
 ソヨンはうっとりした表情を浮かべた。
「軽音サークルの子たちの歌は、ほとんどがくそみたいだけれど」
 わたしはその罵り言葉に思わず吹き出す。
「そうなの?」
「うん。歌に、うるさいものが付着していて。こっちを見てー、わたしを褒めてーって余計なものが、歌を汚してる。でも、ニシャーダの歌にはそれがない」
 へえ、とわたしは言った。
「全然?」
「全然、ない」
 きっぱり、ソヨンは断言する。
「ニシャーダは、単に歌をうたっている。それだけ。だから、とても美しい」

 その後、ニシャーダと連絡先を交換した、とソヨンが嬉しそうに言った。一般教養の授業で再会したらしい。それからちょくちょく、メッセージのやりとりをしているそうだ。
「見て。ニシャーダのLINE」
 ソヨンがiPhoneの液晶画面を見せてくる。ニシャーダのアイコンは、皿の上に乗った色とりどりのカレーの写真だった。
「これ、スリランカカレーかな」
「きっとね」
 日本のカレーとはずいぶん違うんだな、と思って見ていたら、
「彼は今、ホームシックにかかっているらしいの」
 と、深刻な顔でソヨンが言った。
「スリランカは遠いから、夏休みといってもなかなか帰れないだろうしね」
 そう言うと、そうなの、と力強く頷く。
「何か力になれたらいいんだけど」
 ソヨンがあまりに心配そうな顔をしているので、わたしは冗談半分でこう言った。
「カレー作ってあげたら? そのアイコンみたいなカレーをさ」
 ばっと、ソヨンが顔を上げる。
「ユウコ、それ、とてもいい」
 目をキラキラさせながらわたしの顔を見つめるソヨンに、わたしは少しまごつく。
「冗談のつもりだったんだけど」
「知ってる。でも、とてもいいアイデア」
 嘘から出たマコトね、と、ソヨンは言った。

 とは言え、スリランカカレーをわたしもソヨンも食べたことがない。調べてみたところ、この街にはスリランカカレーを食べさせる店が一軒もないようだ。
「いちばん近くて、電車で二時間か……」
 わたしがiPhoneの検索結果を見ながらそう言うと、ソヨンは
「哀号。ホームシックにかかるはずね」
 と、心底同情するように、首を振って言った。
 
 わたしたちは街の本屋さんでスリランカカレーのレシピブックを求めた。インターネットで見つけるレシピよりも、おいしいレシピがあるにちがいないから、とソヨンが言ったのだ。
 『家で作れるスリランカカレー』という本が一冊だけあったので、わたしたちは「これこれ」と喜んで手にとり、中を覗き込む。しかしそこには、見たことも聞いたこともないスパイスの名前が、ずらずらと並んでいた。
 ソヨンは静かに本を閉じた。
「残念だけど、このスパイスを揃えるお金が、わたしにはないよ」
 同感だった。下宿している大学生というのは、お金がないものなのだ。カレーを作るためだけに、これらスパイスを揃えるのは容易ではない。
「だけど、スリランカカレーを作るのに大事なのは、スパイスを揃えることだけじゃないと思う」
 ソヨンは力強くそう言った。ふむ、とわたしはソヨンの言葉の続きを待つ。
「他にふたつ、大事なことがあるのに気づいたよ」
「なに?」
「ひとつは、鶏で出汁をとること。そして、カレーのまわりにおかずをいくつも載せること」
「なるほど」
「これらは、韓国料理にも共通している。だから、わたしはスリランカカレーを作れる」
 その三段論法はどうかな、と思ったけれど、口には出さなかった。
「複雑なスパイスの味は、ハートでカバーしよう」
「あ、それは素敵だね」
 その言葉は本音だった。ソヨンは本を本棚に戻して、にっこり笑った。

 ソヨンは業務用スーパーで、骨つきの鶏肉とカレー粉とココナツミルクを買った。大きな鍋がないので貸してほしいと頼まれ、一旦家に戻って自転車で土鍋を持っていってあげた。ソヨンは感動しつつも、カレーのにおいがついてしまうことを気にしているようだった。でも、わたしにはそんなことはどうでもよかった。ソヨンがカレーを作ることのほうがよっぽど大事だ。
「そのかわり、わたしにも食べさせて」
「もちろん!」
 ソヨンは自分のワンルームの玄関の前でガッツポーズをした。その格好がかわいくて、わたしは笑った。

 三日後、ソヨンがうちに来いと言うので、試作ができたのかと思って行ったら、そこにはすでにニシャーダがいて正座していた。背中の壁にギターケースを立てかけ、黄色いポロシャツを着ている。ニシャーダは恥ずかしがりやだけど、ファッションの色使いが鮮やかだと思う。
 部屋の中にはカレーの香りが充満している。すでに、準備は万端らしい。ソヨンはエプロンのひもをいじりながら、「いらっしゃい」と緊張した顔で言った。
「わたし、邪魔じゃない?」
 小さな声で言ったら、ソヨンはぶんぶん首を振る。いきなり本番で食べさせることはするのに、二人きりになるのには怖気づくらしい。よくわからないな、と思いながら、ニシャーダの正面に同じように正座し、会釈をした。
「いいにおいですね」
 と、ニシャーダが笑った。
「そうですね」
 わたしも笑顔をつくって返事をする。すぐに話すことがなくなり、わたしたちはソヨンのピンクのちゃぶ台の前で、落ち着きなく向かい合った。ソヨンと仲良くなってからすっかり忘れていたけれど、わたしは人見知りなのだ。
「彼女は、私のホームシックをなおすために、スリランカのカレーを作ってくれたそうです」
 ニシャーダがそう言った。知っています、と思いながらも「そうですか」と答える。ニシャーダははにかみながら、こう続けた。
「とてもいいひと。私は嬉しいです」
 そうですね、と答えながら、わたしも嬉しくなる。

 出されたカレーは、ぱっと見ニシャーダのアイコン画像とよく似ているようだった。ニシャーダもわたしも「おお」と声をあげた。
 チキンカレーのまわりに、色とりどりの副菜が並べてある。しかしそれらは、白菜キムチ、ほうれん草のナムル、ゼンマイのナムル……どう見ても、ソヨンの故郷の料理だった。カレーからも、どこか韓国料理のような香りがする。
 目の前にあるのがスリランカカレーではないことが、スリランカカレーを食べたことがないわたしにも、すぐにわかった。わたしはお皿から目をあげて、ニシャーダの表情をうかがう。
 ニシャーダは少し戸惑ったような顔をしていたが、
「いただきます」
 と、礼儀正しく手を合わせた。ソヨンは緊張した面持ちで、自分もスプーンを持つ。わたしもどきどきしながら、スプーンを持った。
 ニシャーダが一口食べる。しんとした部屋に咀嚼音が小さく鳴った。わたしとソヨンはスプーンを持ったまま、ニシャーダの反応に耳を澄ませた。
 すると、ニシャーダがこう言った。
「とても、おいしいです」
 わたしはそれを聞き、ちらりとソヨンの顔を見る。ソヨンは小さな声で、
「よかった」
 と、言った。真っ赤になったその笑顔は、本当に嬉しそうだった。
 その顔を見ながら、わたしはニシャーダの言葉に嘘がひっついていないことを知る。

 そのカレーは確かにココナツチキンカレーなのだが、やはりなぜか韓国料理の味がした。なんだろう、ごま油とにんにくの味だろうか。
 あたり、とソヨンが答える。
「わたしの母は、何にでもこのふたつを入れる。このふたつを入れたら、なんでもおいしくなるよって」
 白菜キムチはソヨンが漬けたものらしい。そう言えば、狭い台所に、もうひとつ冷蔵庫らしきものがあるのが見える。「あれは、キムチ専用の冷蔵庫」わたしとニシャーダは「すごい」と驚きながら、ソヨン特製のキムチを頬張った。ニシャーダはおかわりまでした。
「作りながら思ったよ。わたしには、ニシャーダのホームのカレーを作ることはできない」
 ソヨンが食べかけの、色とりどりのカレーの前でそう言った。
「だけど、わたしのホームのカレーを作ることはできる」
 ニシャーダは、手を止めてソヨンのことを見つめている。
「ニシャーダ、今度あなたのホームのカレーを作って。そして、新しい友人にふるまうの。それが、ホームシックをなおす方法だと思うから」
 ソヨンはそう言って、まだ少し赤みの残る顔でにっこり笑った。
 ニシャーダが唇をへの字にして、うん、とうなずいた。

 食べ終わったあと、ニシャーダはお礼にと、ギターを弾きながら歌をうたってくれた。その歌は食堂の前で聴いたのと同じもので、二度目に聴くと、より一層深く響いてくるようだった。ソヨンは気持ちよさそうに目を閉じ、耳を澄ませる。
 そして、歌が終わるとやはり、ばちばちばちと大きな拍手をした。

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編註:
この小説は2018年7月7日のイベントのために、土門蘭によって書き下ろされた。

「スリランカ」と「韓国」という、ふたつの国をイメージしたカレーを饗するという企画の中、我々としては、やはり文学の力を使いたかった。この物語でソヨンがニシャーダのために作ったカレーを、皆さんに食べていただこうと思う。それはタッカンマリ(パンマリ)をベースに作られた、スパイスカレーになる予定だ。
メニューの名前は「マシッソ? ラサイ!」(맛있어? රසවත්!)とした。
韓国語で「おいしい?」、シンハラ語で「おいしい!」の意だ。

そして、当日はこの小説を印刷し、製本された状態で来場者の皆さんに、もう一度読んでもらおうと考えている。モニターで読むのと、版面をデザインされ装釘された状態では、不思議なことに同じ物語でも読み心地が違うからだ。

異なった文学の体験。物語と食事の体験。
それらをぜひぜひ、味わっていただきたい。

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