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続いてきた記憶

当たり前のことなのだけれど、私たちは体がひとつしかない。人生という経験は一人分しかできない。

だからだろうか、潜在的にいつでも憧れているような気がする。自分の経験し得ない、他の人の視界と過ごした時間に。そしてそれを見せてくれる物語に触れずに居られないではないかと思う。

時折はっとするほど、自分と違う視点に出会えると頭を打ちつけたような衝撃を覚えることもあるし、それが時折その後の自分に影響を与えることもある。

物語といっても、人の頭の中を共有してくれるものならあらゆる形で存在している。
文字で綴られることや、絵、写真や映像で見せること、音で聞かせること、これらはその最たる物だけれど。そこかしこにある、小さいものから大きなものまで、人が作り出すものすべてに透けて見えることがある。

「神は細部に宿る」唱えた人物としては諸説あるけれど、建築家ミース・ファンデルローエがこう言ったことは有名だ。これは本当だと思うけれど、宿るのは人となりだろうなと思うことがある。細部にこだわりを感じると、これを作った人はこの部分も大事なポイントで、それを研ぎ澄ませた結果、神が宿ると言われるものにしたのだろうと。

人は一人分の経験しかできないのだけれど、そうやってインプットしていくと、その誰かの意思や視点が私たちの中に息づいていく。不思議だけど、一人だけでみれていたものが沢山の人の中にインプットされて一人だけ見ていたもので無くなる。

そうやってあらゆるところに息づいてる、無意識に影響されている。そういうものは時間が経つと刺激に慣れて思考の中で違和感がなくなっていくから、自覚的でいることは難しいけれど、出会えた時の感動はエネルギーをくれるから、なるべく長く捕まえて置きたいものだなと思う。

そうして、忘れないように誰かが残したものの何かが、また誰かに共有されて残って、今日まで受け継がれてきたんだなあと、手元にある色々なものを見て思った日曜日だった。

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