便利な人間って悪いことなんだっけ。
このnoteを書き終えたあと、はて、と思った。
まるで悪いことのように見えてしまっているが、私は使える人間になることが悪だとは思っていない。むしろそう振舞うことで開かれる道もあるのではないかと思っているくらいだ。
何かのツールを使えることは、仕事を得るきっかけになるし、使える人だからこそ、入り込んだその先の経験を得られることもある。理屈は後からに覚えられることも多いとも思う。
なんというか、文字を書ける人には代筆も頼めるし、代筆していればその内容を知ることができて、自分の身になる。そんなようなことだと思っている節があるからだ。
ただ、そこで私自身は自分が集中する方向がずれていることが、ままあると感じている。言うなれば、分かりやすい文章を書くことを目指すべきところを、文字を綺麗に書くことにこだわってしまう、というような。
手段を目的に変える。その意思があって変えるのなるのならばそれはとても素晴らしいことだ。自分のことを正確に計ることはとても難しいことだから、時に得意を仕事にすることは、好きを仕事にすることよりも難しい。
だから、綺麗に文字を書くのが好きな人が綺麗に書くことを求められているところに行けたのならそれはきっとどちらにとってもよいことだと思うのだ。
でも、目的が手段にとって変わられて、いつのまにか中心に手段が居座っている。そんな状態になってしまうことこそ、私が一番怖かったことなのに。怖がってどこかで逃げている間に「そこ」に居座っていたのは私にとって手段だったものなのではないか。
今そう感じているから、溺れてでも差し出される手は取れないのだろう。
どこかで遠巻きに見ている「私」がそう観察している。
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