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百聞は一見に如かずというけれど


「百聞は一見に如かず」
有名なことわざだ。これにはどうやら後世の人が、言葉をさらに付け足して、有難いお言葉にしているものもあるらしいけれど、それは一旦、傍に置いておくとして。

意味自体は「人から何度伝え聞くよりも一度自分の目で見た方が確かである」というようなことだったはずで、事実、頭で考えているよりも、行動に移してわかる、感じるものというのは、多いように思う。


私は「いいかげん」なところがあるから、大抵最初はあれやこれやと調べたりして居たのに、途中で悩むのが億劫になる。そしてある時、痺れを切らして、突然なにも持たずに飛び出す。みたいな節があるので、「百聞は一見に如かず」には概ね賛同している。


ただ、「私にとっては」そうだったけれど、誰かにとっては私の体験は1%くらいの価値しかないかもしれないな。と最近思うのだ。
というよりは、そう思うようにしている。


それと同じように「誰かにとっては」体験が最善だったけれど、それはあくまで1億2600万分の1の確率の話だ。私にとっても体験が最善かは、時間も場所もあるゆる条件が変わっている以上、最善ではないかもしれない。と寄りかかりすぎないようにしたいとも思っている。


「一見」が果たして本当に「百聞」に勝てるのか?というと少し意味がずれてしまうけれど。

例えば、「百聞」が「あらゆる情報収集」で、一見が「一度の体験」だとしたら。何を得たいかによっては「百聞」が勝つことだってあるんじゃないか。

体験が伴わないことを、蔑ろにされる謂れはないのではないか。なんだかうまく言えないけれど、ひょっとしたら、そこから何か取りこぼしてしまう事もあるんじゃないかと、そう、最近は感じている。


これは私に限った話ではないかも知れないけれど、ついつい体験談を尊いものとして信仰してしまいがちな嫌いがあるように思う。体験は確かに尊い。そこに至るまでの経験、判断、思考などが合わさった大事なものだ。

だけれど、誰にでも当てはまるものではない以上、押し付けるようにしてはいけないし、過度な体験信仰は道を狭めることもあるかもしれない。

ということは、(これを体験から遠ざかる免罪符にしてはならないという自戒も込みで)これからも胸に留めておきたい。

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