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丹生田の詩

 九州のちょうど真ん中あたり、山々に囲まれた谷沿いに丹生田(にゅうた)の里はある。以前は丹生田村と言っていたが、市町村合併によって、隣接の御田(みた)市と合併し、御田市丹生田となった。
 
 江戸時代、御田は天領であった。御田藩主の早田盛親は、地域振興を考え窯業を興そうと考えた。しかし、焼き物の知識も無いため、隣藩の博多藩主、林田輝明に相談したところ、朝鮮から来て焼き物造りを担っている、林仙蔵なるものを寄こした。林に近郷の調査を依頼したところ、丹生田の土が丹(たん)いわゆる鉄分を多く含み、焼き物に適しているとのことであった。
 そこで、早田は庄屋を集め、丹生田で焼き物を行う人間を集めた。五人が集まり、焼き物を行うこととなったが、しかし、皆焼き物をしたことがなく、どうすれば良いかわからない。そこで、早田は林田に頼み、博多藩で焼き物を行っていた、小河原焼の窯元から五人を家族を含め招聘することにした。これが、丹生田焼の始まりである。
 それから二百年以上、この丹生田の里で焼き物は続いてきたのである。現在でも、当初の十家族の子孫が代々、焼き物を焼いている。
 
 喜兵衛は登り窯の煙を見ていた。煙の色が変わる時が、窯を閉める時だと経験的に分かっている。喜兵衛は息子の和彦に「今だ、閉めろ」と言った。窯は閉められて二日後には窯出しだ。この作業を何十年やってきただろう。この窯で作るのはほとんどが生活陶器である。京都の茶の湯で使うような、茶器は作っていない。茶道においては、一に井戸、二に楽、三に唐津というようなことがあるようだが、ここはそもそも殿様の言いつけで生活陶器を作ってきたのだから、別に今更茶器を作ろうとは思わない。

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