見出し画像

絵画の読み方について:「天秤を持つ女」 ヨハネス・フェルメール

この絵画はオランダの画家ヨハネス・フェルメールが1662年~1663年頃に制作したもので、アメリカのワシントン国立美術館(National gallery of Art)に所蔵されています。

さてこの絵を見てみましょう。片方の手で天秤ばかりを持つ女性の片方の手がこの絵画の中心に描かれています。彼女は毛皮に縁どられた美しい上着を羽織っており、彼女の前のテーブルには、真珠や金で作られた美しい宝石が開いた箱からこぼれ出ています。また、美しい青い布がテーブルの片隅に置かれています。

フェルメールは絵を描くとき、カメラ・オブスキュラを使用していたという研究があります。これはピンホールカメラのようなもので、光の表現に使われたと言われています。この絵でみると、真珠の輝きや、天秤ばかりの皿に現れた微かな反射、また女性が被っているフードの光具合等、光の表現が巧になされています。

また、テーブルに置かれた左手の指先にも、光が当たっていますが、近づいてよく見ると、その指の輪郭はぼやけています。それは壁または地面に映った人の影を近づいてよくみるとぼやけているのに似ています。

この女性が裕福であるのは見て分かると思います。金銀の重さを量っているらしい彼女は、その貴金属の価値の故か思索的な表情をしています。彼女の唇に微かな笑みが見て取れます。それは貴金属の重さを量ることへの満足感から来てるものかも知れません。もしそれが微笑みではないとしたら、金銀の重さを量るという彼女の仕事ゆえの慎重さが表れているとも言えるでしょう。

もしかすると金銀以上のものを秤にかけているのかも知れません。

当初「金を量る女」と呼ばれていたこの絵は(実際の題名は不明です。)、実際には、秤には何も乗っていないことが確認され、「天秤を持つ女」と改題されました。

多くのフェルメールの絵画がそうであるように、この絵からも実際の描写と道徳的寓意の二つの意味を読み取ることが可能です。その意味とは最終的に彼女が手に持つ天秤に込められていると思われます。そしてこの絵の真の意味のもう一つは彼女の背後に掛けられている絵にあります。

絵に近寄ってよく見てみると、彼女の背後の絵は聖書の最後の審判を描いていることが分かります。最後の審判とは人間の魂が救われるか、地獄へ落ちるかを最終的に審判することです。

キリスト教によれば、最後の審判の時、イエス・キリストによって死者を最終的に天国へ送るか、地獄に落とすかを判断するため、天使が死者を墓から生き返らせると言われています。そして、その時、魂を量るために天秤ばかりが使われるのです。

背後の絵には、イエス・キリストが頂点に神々しく描かれ、下の部分は二つの領域に分けられています。(天国へ行く者、地獄へ落される者)

先ほど述べたように、このフェルメールの絵は二つの視点で見ることができます。一つは17世紀の室内の様子が美しい構図で描かれた中で、裕福で美しく着飾った女性が思慮深げに佇んで仕事をしている光景。もう一つは、死後に待ち受ける、大いなる審判に比べれば、金や真珠などのこの世の富は取るに足らないものだという寓意。

フェルメール2

この絵は以上の両面性を我々に伝えてくれます。と言って、これは大げさな道徳的な意味を持つものではありません。また、この女性は無節操な物質的な欲望を持っている訳でもありません。

むしろ、彼女が手に持つ天秤ばかりは、富と道徳のバランスを取るという、17世紀オランダ社会の一般的な考え方を示していると思われます。

そしてそれよりも、この絵を見る我々に、物質的なもの(金銭的な富)に重きを置いているのか、または道徳的な行いに重きを置いているのか見る者にを問いかけているとも言えます。

それ故にこの絵からは、この絵を見る人々に対してよりバランスのとれた思慮深い人生を送りなさいという示唆を読み取ることができるかもしれません。

また、この絵には見逃されがちな、より深い意味を持つものがもう一つがあります。それは彼女の前の壁に掛けられている鏡です。絵では暗く描かれた鏡の、その表面の細長い光の筋しか見て取れません。

鏡の存在は暗示的です。それはこの絵を見る者に小さいけれど重要な思慮深さを求めます。もし彼女が仕事の手を休め顔を上げた時、彼女がどのような反応を示すか想像してみることです。彼女が頭を上げ、ちらりと鏡に映る自分の顔を見たとき、この絵を既に見ている我々が自分自身に問いかけている質問が提示されます。すなわち彼女は宝石の重さを測っているのか、それとも魂の本質を測っているのかを。

このように、私たちがこの絵を見ていると同じように、この鏡はこの絵の中において同じ役割を果たしています。さらに明白なことは、鏡は自分自身を見るという行為によって、個人的な思慮を引き出すのです。

鏡は絵の代わりとして存在するのか、または絵が絵の前に立つ人にとっての鏡になるかもしれません。

フェルメールは結婚を機にカトリックへ改宗しました。彼は仕事を通して、世俗性と精神性の両方の意義を追求しました。この絵はそれぞれの繊細な意味を表現しています。最後の審判の絵とともに、この世の富に囲まれて描かれた女性は新しい認識へと導かれているようです。

それは、この現世を超えたところに存在しています。精神的、霊的な存在はこの地球に住む我々と共にあります。その存在は、我々に宝石箱の中にある金や真珠よりももっと重要なことに目を向けるように要求しているのです。

(英文記事及び他の資料を補足して作成したものです。)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?