sasakure.UK「アフターエポックス」とDECO*27「MANNEQUIN/マネキン」が祝福するもの

要旨

・「アフターエポックス」はポケモンにおける「家に帰る」概念を祝福することをもって、ポケミクの終わりを祝福する作品である。
・「マネキン」は恋愛の終わりと「MANNEQUIN」の終わりをまとめて祝福する作品であり、それは初音ミクという存在のあり方への肯定に繋がる。
・両者を並べることで勝手に気持ち良くなれるので、一緒に気持ち良くなろう。

はじめに

本記事で扱う範囲を明示しておきます。
前半では、ポケミクこと「ポケモン feat. 初音ミク Project VOLTAGE 18 Types/Songs」の追加楽曲「アフターエポックス」について軽く触れ、後半ではDECO*27の8th Album「MANNEQUIN」および関連楽曲「マネキン」について論じます。
本記事における解釈などはすべて私の主観です。


アフターエポックス

ポケミクの19(20)曲目、「アフターエポックス」はポケミクの終わりを祝福するという困難な課題を、ポケモンのゲームにおいて家に帰ることを祝福することをもって完遂した作品だと私は受け取っています。

まずは細部の描写を拾っていきましょう。

"アフターエポックス" feat.初音ミク / sasakure.‌UK

フォロワーの受け売りになるのですが、アフターエポックスでは(異なる地方へと渡る)飛行機に乗るミクが描かれます。ミクは主人公ではないのでホウオウを手に入れることはない、とインタビューで語られていますが、要はこのミクはゲームの主人公ではなくて、でも色んな地方を旅してそのたびにライバル(靴しか見えないけど)と戦う、プレイヤーに近い存在なわけです。

今後一生擦ることになりそうな話ですが、アウトロのマイナーチェンジ・リメイク・DLCの追加要素ゾーンにおいて、真ん中の仕切りを挟んで複数の作品が引用されているのが、プラチナとBDSP、ORASとエメラルド、HGSSとクリスタル、そしてウルトラサンとムーン(ウルトラムーンではなくムーンです)になります。SMは日輪/月輪の遺跡、イワンコとコスモウムの進化ギミックや時差など、UBの住む世界とは違っていても類するものではある一つの異世界として互いを設定しています(異世界・異次元は以前から設定レベル・ゲームプレイのレベルで作品に組み込まれていましたが)。

これによりリメイクやマイナーチェンジの世界は前のものと異なっていて、異なるゲームを遊ぶということは、異なる世界を旅することであるという側面が強調されます。ここからは解釈を拡大していくターンなのですが、そもそも本MVのミクはピアプロキャラクターズ(油断するとすぐクリプトン組とか言ってしまう。これが一番ナウい言い方でいいんだよな……?)が住む家を出て、かなり純度の高いポケモン世界(主人公たちとミクはすれ違うだけで、ネズさんすらミクとはポケモンを通してしか関わらない)を旅していき、最後にまた家(別にそこを一致させる必要はないんだけど、MEIKOとKAITO分の傘も後から増えてるのに笑ってしまう)に帰っています。つまりはボカロの世界観の住人であるミクが一時的にポケモン世界という異なる世界を旅しているというのがこのMVで、いよいよやっていることがポケモンを遊ぶ我々と変わらなくなってくるわけです。どころか、「ゲームを遊ぶとは一つの異世界を旅することである」というゲームの一面がMVによって強調され、我々のところに逆流してくるまであります。

ポケモン主人公の総出演と並んで忘れてはいけないのがタイプミクの総出演ですが、本MVでは「Glorious Day」のそれとは全く異なり、どれもミクが音楽を聴いている間にしか現れない存在になっています。インタビューでも少し触れられていますが、我々のゲームプレイに「18タイプ分のプレイヤー」「18タイプ分の主人公」は出てきませんし、それら同士が交流するなんてもってのほかですからね。そしてこの「最後の最後に派生ミクたちの虚構性が高まる」部分こそ、私がこの記事を書くに至った理由なのです(後述)。

そもそも各タイプのミクは、まあ大体のゲーム内の立ち位置というのがやんわりと想定されており、特に主人公っぽいエスパーミク・悪の組織ボスっぽいあくミク・ドラゴンつかい系チャンピオンっぽいドラゴンミクは「Glorious Day」でそのいつだって世界を変える立ち位置が強調されています。でんきミクはエンターテイナー系ジムリーダーだし、じめんミクは3~5世代あたりの放浪チャンピオンだし……でも、このミクたちが出てくるゲームというのは存在しない。主人公っぽかったりジムリーダーっぽかったりしていても、主人公ではないしジムリーダーではない。「もしもポケモンの世界に、ポケモンのゲームにいたら」を突き詰めに詰めた結果、かえってifの存在であることが大事になってくると思っています。ミクはポケモンのゲームに出てこないし、ポケモンがピアプロキャラクターズに取り込まれることもない。ポケミクっていうのはそういうコラボ企画だし、ゲームっていうのはそういうものなのです(現実のものはゲームの中に持っていけないし、逆も然り)。でも我々はゲームの中の世界の住人でないからこそ、様々なゲームを遊び、様々な「自身の」人生を体験できる。これをポケミクと絡め、タイプミク、特にアフターエポックスにおけるタイプミクたちに重ねるのも良いでしょう。

ポケモンとミクという、現実とゲームぐらい離れた世界を、現実とゲームのように繋いだからこそ、自由で無限大な妄想が生まれた。そして妄想はゲームのように終わり、家に帰る日がやってくる。ポケミクは互いの世界観を何も乱さずに完結し、後に残るのはイラストと楽曲とCDとその特典グッズ、以上。終わりがあっても、残るものが少なくても、異なる世界を旅して帰る、その体験がどれだけ価値があるものなのか、一度でも「殿堂入り」したことのある我々はすでに知っているでしょう。ポケミクのフィナーレに、旅をして家に帰るミクをぶつけることにより、ポケミクの価値と、ポケミクに終わりがあることの価値を提示する。それが「アフターエポックス」なのだと思います。

MANNEQUIN/マネキン

「MANNEQUIN」はDECO*27の8th Albumであり、Youtubeに投稿された5つの楽曲と未投稿の4曲、過去作のリバイバル2曲からなります。コンセプトは「アイドル、全員初音ミク!!!」で、リバイバルを除いた9曲にそれぞれ凝りまくったデザインのアイドルな初音ミクが割り振られています。公式サイトでは各ミクの設定やオフショットが閲覧でき、公式コミックアンソロジーなんかも発売されていますが、ジャケ写では全員思いっきりマネキン人形で、かなり怖さがあります。「初音ミク、全員マネキン人形!!!」の方がまだ適切だろ。
「MANNEQUIN」発売から1年後の2023年3月9日に関連楽曲「マネキン」が投稿され、シリーズは完結となりました(たぶん)。

本シリーズのうち最初の3曲はどれもビビッドな単色背景+ミクの一枚絵+歌詞表示で構成されるMVなのですが、「黒塗り世界宛て書簡」で知られるフロクロ氏(本記事は登場人物が大スターしかいないので敬称なしでやっているが、氏だけはTwitterの印象が強すぎて敬称を付けたい)による、こういったMVについての記事が大変面白かったです。

この記事を踏まえるとパラサイトとジレンマのMVの毛色が違うのは当然というか、流石にこの2曲のカバーが流行する見込みは薄いですからね。しかしまあここまで広範なバズを狙って始まったシリーズを最終的に「初音ミク」そのものを表現したコンテンツとして完結させるところにDECO*27の貪欲さと矜持……というとなんですが、「らしさ」が見えると思います。四皇にまでなった白ひげが故郷の村に送金していたみたいな感じの……

ヴァンパイア・アニマル

収録順で最初の2曲に位置するヴァンパイアとアニマルは、どちらも「牙を隠す話」です。要は恋愛・性的な事柄への積極性をヴァンパイア・アニマル(一般名詞)的なものとして、それをマスクやメイクで隠しつつ、いざ時が来たらガブっといっちゃう。一方でMVでは全然牙を隠していないしむしろ見せつけているわけですが、これはアニマルの後半の歌詞で触れられています。

塗り重ねたメイク ばっちりなアニマル

「アニマル」

メイクの下にあるすっぴんだと謳っていたアニマル性も、所詮はメイクで作ったものでしかありませんでした。そりゃそうです。「『あたしほんとは動物っぽいところがあってぇ〜』って言ってる奴がキャラ作ってないわけないだろ」ってことですね。違うか。すっぴんたる人格があるとするとかないとするとかの立場は今は重要ではなくて、「偽すっぴんをメイクとして認識している主体がちゃんとある」ことが注目のポイントです。

これに関連して、私は一時期「アニマルをVが歌うのってめちゃくちゃアイロニカルだよね」論を唱えていました。
「今のVはただのガワをかぶった人間になってしまっており、キズナアイなどに期待していた新しさはどこにも無くなってしまった」の類の言説が1ヶ月おきにバズるインターネットですが、それでもVのメインストリームに参入する場合、(しばしば取ってつけたような)キャラクター設定を付けるのが主流です(「メインストリーム」と「主流」、単語の構成が同じだな……)。これはなぜかといったら、コミュニケーションの取っ掛かり、過剰に具体的に言えば初配信・初動画の話題が必要だからでしょう。我々はガワをかぶっただけの人間を求めながら、最初の最初には見た目以外の部分でのガワを必要としているわけです。そして活動を重ねていくことで(見た目以外の)ガワは剥がれ落ち、そのV自身のキャラクター性が明らかになっていき、我々の多くはあっさりそれを素の姿だと認識し、惹きつけられる。そんなVがアニマルを歌うの皮肉でオモロ〜!と私は思っていたのですが、まあこの駆け引きって恋愛に限らず人間関係において広範にある話であって、それをVの話だけに局所化するのは愚かだったかもな……とやや反省しています。

一方で、人間なら逃れられないこの話との縁が、例外的に一切無いにも関わらず、アニマルを歌ったキャラクターがいます。初音ミクです。
……Vよりこっちの方が遥かにアイロニカルですよね。「付与された設定」しか存在しない、根幹には声と見た目以外何もない、キャラクターとしての人格すらないミクが、今まさに声と見た目にアレンジを加えられて、あくまで「すっぴんの自分というのはあるが、それはそれとしてすっぴんだと称しているアニマルはメイクの産物」だというアニマルを歌っている。皮肉であり、そしてこれにより「素の初音ミク」というあり得ない概念が「あることになってしまう」ことこそMANNEQUIN/マネキンの主題の片鱗であり、この2曲がMANNEQUINの収録順でのトップバッターに相応しい理由だと思います。

状態異常彼女〜ギフト

MANNEQUIN/マネキンには複数のストーリーラインが存在しているので、区別のため呼称をつけておきます。
時系列順に歌詞を並べたもので語られている、一人の少女(『初音ミク』としないのは、このストーリーラインにおける少女と、MVなどに登場するミクの同一化を避けるため。一人の人間がバリエーション豊かな9人のミクに変化したら怖すぎます)が恋をして破局するものを「恋愛のストーリーライン」とします。
また、特設サイト等で語られている、9人の初音ミクがアイドル「MANNEQUIN」として活動するものを「アイドルのストーリーライン」とします。この9人のミクはCDのジャケット等でマネキン人形の関節を見せつており、始まった瞬間からストーリーライン自体の虚構性、メタ性が強調されています。「マネキン」のMVでも、このミク同士が電話したり写真に一緒に写っていたりはしていても、同時に画面に映ることはクライマックスの謎空間以外ありません。
また、現実に行なわれた営みである、初音ミクを使用してDECO*27が曲を作り、MVが作られ、動画や音楽として我々の元に届けられたことを「現実」とします。すごい文だ。

さて、恋愛のストーリーラインにおいて起こっていることは極めて一貫していて、「思っていることを言葉で伝えられなかった」これに尽きます。

「シンデレラ」の時点では、単純にキョドっているから。いざ関係が進んでも、相手の負担になりたくないから、可愛い自分だけを見せたいから……様々な理由で言いたいことは言えず、チリツモっていきます。「おじゃま虫Ⅱ」がMANNEQUINシリーズの中に紛れ込んでいるのも、単に「おじゃま虫」の視点を変えたアンサーソングというだけでなく「少女サイドが好きだと言えない話」であることがこの流れに合っているからでしょう。
そしてMANNEQUINの未投稿楽曲(状態異常彼女、U、ケサランパサラン、ギフト)では言葉の代替として、あまり現実の恋愛に出てこないキーワードが登場します。「歌」です。お前は言葉で伝えられない思いを歌で伝えたことがあるか?俺はない
つまり地に足のついた恋愛のストーリーラインに、「初音ミクの楽曲」としての立場(と、もう一つ下の弱めのレイヤーとしてアイドルのストーリーライン)が被さってきます。逆にYoutubeにMVが投稿された5曲には「歌」が歌詞に全く出てこないんですよね。Youtubeでは恋愛のストーリーラインだけが見えるようにして、よりメタに寄った内容はアルバムに詰め込んでいるわけです。

さて、恋愛のストーリーラインしか存在しない空間にアイドルのストーリーラインその他を導入する「歌」とは、どのような存在なのでしょうか?時系列順では「シンデレラ」のすぐ後に位置する「U」で既に、MANNEQUINにおける歌のあり方が詳述されています。気持ちを歌にして、手紙のように贈る。相手はそのリズムに合わせて踊り、メロディーを歌ってくれる。まあそれで気持ちが伝わるわけではないんですけどねガハハ。
そういうわけで、言えないことがチリツモった「ケサランパサラン」、おかしくなった好きを詰めに詰めた「ギフト」2曲のタイトルは、そのままMANNEQUINにおける「歌」に相当する……ということになります(します)。そして現実で歌というギフトを受け取っているのは我々であるということも、記憶の片隅に留めてもらえると後々助かります。恋愛のストーリーラインで歌を聞いているのはもちろん「君」なのですが、現実ではもちろん、アイドルのストーリーラインでも歌を聞いているのは、結局我々(もしくは、「君」と我々を重ねたもの)なのです(なお、アイドルのストーリーラインでのDECO*27はプロデューサーをやっています。現実でももちろんプロデューサーをやっています)。

パラサイト・ジレンマ

この2曲、あんまり言うことがないんですよね。ただこういったド病みソングが2曲あるというのは大事で、恋愛のストーリーラインで最終的に陥った事態というのは、自己を軽く変化させるだけでは解決しないぞ、というのがより強調されます。またジレンマのMVはMANNEQUINの発売と同日の公開ですから、一年後の「マネキン」に向けた出題編のような趣もあるはずですが、これだけ見て「マネキン」を予想しろというのも無理な話です。「ジレンマのMVではMANNEQUINの各ミクが同一人物のように描かれているが、一人の人間がそんなに変化できるはずがない。恋愛のストーリーラインにおける少女の変化はあくまで歌詞でのみ語られていて、こちらはミクというキャラクターがアレンジを加えられて我々の前に現れることを指した半メタ表現なのでは?」とか言い出す奴、ちょっと距離を置いちゃうと思います。

おじゃま虫Ⅱ・モザイクロール (Reloaded)

先ほど少し触れましたが、「おじゃま虫Ⅱ」・「モザイクロール (Reloaded)」について考えます。本筋から逸れますが私は「おじゃま虫」の掛け合いが大好きでして、

先っちょだけだから この想いを入れさせてよ

「おじゃま虫」

どうして私がいいの? 奥まで届けてほしいよ

「おじゃま虫Ⅱ」

このカスみてぇな下ネタでありながら、「Ⅱ」単品だとギリギリ言い訳の立つこの感じ。長いキャリアを乗りこなす老練な技です。でもまあ両曲のカスみてぇな下ネタのおかげで「おじゃま虫Ⅱ」が少女視点だと断定できるのでありがたいのかもしれません(?)。

さて、おじゃま虫Ⅱが「好きだと伝えられない少女」のテーマに沿っているなら、モザイクロール (Reloaded)がMANNEQUINに収録されたことには何の意図が込められているのでしょうか。私は「マネキンにおける疑似的な死と再生の別バージョン」だと考えています。恋愛のストーリーラインにおいて、マネキンでは古い自己に対して目を閉じたらバイバイを完遂しているわけですが、それに対して最終的に自己を殺し切らないモザイクロールでカウンターを置いておく、という形です。一時の衝動で自己を捨てても良いことないですからね、自分とよく話し合った上で今の自身を愛せるかを決めましょう。

ただしこのモザイクロール (Reloaded)の位置付けには問題があって、DECO*27のボカロオリジナル曲は高頻度で病んでいるので、「分裂した自分を殺そうとする曲」が大した特徴にならないんですよね。
最近だと「ハオ」でも少しやっていますし(絵面がかなりコラっぽい)。「迷走しちゃうあたし 安らかに死ねばいいのに」を極限まで丸くするとボルテッカーの「誕生しちゃう病みにバイバイ」になるんですね〜。

DECO*27 - ハオ feat. 初音ミク
「そんなこと皆解って楽しんでんだよ 第一話『お前は寝てろ』」っぽい

むしろ本来の意味で「殺す」を使うことが中々ない気がします。「時効、無力がち」に次ぐDECO*27あるあるとしてのパワーがあるかもしれません。

(もちろん「アルバムがジレンマで終わるのが後味悪すぎるから過去曲のリブートでお茶を濁した」でも成立するので、それでもいいです。本当にそれでもいいです)

マネキン

シリーズの完結編のような立場である「マネキン」のMVには、デフォルトっぽい初音ミクが登場します(この見た目の呼称は本当に難しくて、例えば「オリジナル」だと「アレンジ者によってオリジナルな要素を入れられたミク」みたいなニュアンスを排除するのが難しい。本記事では「デフォルト」で通します)。デフォルトのミクというのはその曲がミクやその周囲のものを歌う、自己言及的な作品であると示すアトリビュートのように働くことが多いです。とりあえずは「アニマル」によって「いることになった」、「素の初音ミク」だと思っておきましょう(それでもミクの概念そのものを出せはしないのです(後述))。
マネキンの歌詞はMANNEQUIN各曲からの引用を組み合わせた、恋愛のストーリーラインをしっかりと完結させるものでありながら、MVではアイドルのストーリーラインが豪華に描かれ、かと思えば落ちサビ以降では恋愛のストーリーラインと現実というメタレベルの異なる要素が混ざり合うようになり、最終的に時計の音とともにミクたちがデフォルトミク、そしてマネキン人形へと還っていきます。MANNEQUINの時点で確かに示されていた、「どうも一人の女の子の恋愛を描いているだけではないぞ」がようやく回収されました。別に回収されなきゃいけないとは思いませんが、これ1年待たされた人はどういう気持ちだったんだろう。

MANNEQUIN/マネキン全体を通して少女が恋愛を通して様々に変化した末に疑似的な死を迎える一方で、マネキンのMVではMANNEQUIN各曲を歌うために分化したミクたちがデフォルトのミク・マネキン人形へと戻っていく。MANNEQUIN/マネキンにおいては「恋する少女」と「初音ミク」が並置されているわけですが、どちらが主でどちらが従か、そもそも主従があるかを断言するのはなんかこう嫌なので、ここからは「結局、恋する少女と初音ミクを並べて何がしたかったのか?」に近づいていくのが良いでしょう。

戯画としてのMANNEQUIN/マネキン

ところでMANNEQUIN/マネキンは、時に「残酷」と評されます。私もそう思います。せっかく魅力的な派生ミクを生み出し、素晴らしい音楽で彩り、あれこれ設定をつけて、ミク同士が絡むコンテンツまで提供しておきながら、せっかく生んだ派生ミクの虚構性を急に高めて消し去る。大体ポケミクと同じことをやっており、ポケミクと同じぐらい残酷です。でも、この残酷さを、MANNEQUIN/マネキン以外のボカロ曲も持っていると言えるのではないでしょうか?

一口にボカロ曲、初音ミクの曲と言っても、そのキャラクターの扱いは千差万別です。ポケミクの楽曲だけで考えても、デフォルトのミクをMVにバーンと出し、そのままポケモンとミクの交点を歌う「電気予報」から、ミクもルカも影も形も出てこない「きみとそらをとぶ」まで、両方の極端なケース、そしてその間の「ボルテッカー」など衣装をアレンジされたミクが登場するケースが存在しています。ポケミクは企画の時点でミクの姿が出張っているので例としては不適かもしれませんが、要は一般に、ミク曲のMVにも「デフォルトのミクが出てくる」「アレンジされたミクが出てくる」「ミクが出てこない」といったバリエーションがあって、そしてその全てが程度の差こそあれ、ミクという概念を借りて、そして返しています。言い方を変えると、全てのミク曲にはミクの概念が宿り、そしてその曲の要素がミクの概念へとフィードバックされるのです。
デフォルトのミクをMVに登場させたとしても、それはミクの概念そのものではあり得ません。具体的には、そのMV内でデフォルトミクが行ったことが初音ミクのWikipediaに追記されることはほぼないでしょう(「でもミクは無からネギを振り始めたぞ」というのは確かにあって、「ゆめゆめ」と「ブループラネット」のMVにおけるミクの形成経緯の違いなんかにその時代性の反映を見出すと楽しいです。少なくとも今からミクが別の何かを振り出すのは難しいでしょう)。つまり見た目が何であろうとそのMV内のミクは一種の「派生ミク」、「その動画/曲のミク」です。当たり前の話しかしていませんが、基礎固めとしてご容赦ください。そして派生のミクであっても、大きなムーブメントを起こすことができれば、ミクの概念そのものを動かすことも可能です。具体的にはDECO*27とchannelのせいで派生の派生のミクによってミク自体のイメージがちょっと痴女に寄りました。

そしてキャラクターがMVに一切出てこないケース、これになるとキャラクターへのフィードバックはかなり乏しくなりますし、制作側の意図としてもミクの概念を借りる気も返す気も少ないでしょうが、まあキャラクターとの相互作用は0にはならないでしょう(正直なところ、これはMANNEQUIN/マネキンの言及範囲から外れている、としても良いと思います)。

そういうわけで、程度の大きな差こそあれ、全てのミク曲はミクの概念をもとに「その曲のミク」を生み出し、曲を聴かせて、そのミクはミクの概念そのものをほんの少し動かして、必ずいなくなってしまいます。これは、キャラクターのない歌唱ソフトを使用した楽曲のMV、または人間が歌う曲の、その当人とは完全に切り離したMVとは、元となるキャラクターが存在するという点で異なり、一方で多くの二次創作とは、正当なプロセスに拠っていて、かつ元となるキャラクター自体がかくなる手続きで変化しうる存在だという共通認識があるという点で異なります。

これがミクたち──その存在を一介のユーザーたちに依存したキャラクター特有の事情であり、DECO*27がミクに(劇的な!)恋愛や失恋や病みを歌わせて共感を集めるように、この派生しては消えていくミクの在り方に一種の戯画化を加えたものが、MANNEQUIN、特に「マネキン」のミクたち、ということになります。

これでMANNEQUINのミクと各タイプミクのコンセプトが似ているということにも納得がいったかと思います。タイプミクの前提にあるのは「ミクが楽曲によってさまざまな姿をとれること」ですから。……いや、両者が似てるってのを言うだけならここまでの記事全部要りませんね。「MANNEQUIN」だけではそこまで込み入った話は前面に押し出されていなくて、「マネキン」で初めて、「アフターエポックス」のポケミクに対する向き合い方とは異なる、初音ミク楽曲全体の話であり初音ミク固有の話になる、と言えると思います。

恋する少女と初音ミク

長々と「なぜMANNEQUINに様々なミクがいるのか」について解説してきましたが、「なぜ恋する少女と初音ミクを並置したのか」には届いていません。恋する少女とのアナロジーに話を戻しましょう。

そもそもMANNEQUINにおいて恋する少女と初音ミクを結びつけているのは「分化しては消えていくこと」でした。そしてこれまで「分化しては消えていく初音ミク」がMANNEQUIN特有の事情ではなくミク一般の話だと論じてきたわけですが、まず明確にしておきたいのは、少女の失恋も、ややこしいミクの在り方も、必然でどうしようもないという点です。前者については特にDECO*27は(ご本人の思想が実際どうかはともかく)恋愛のパワーをとにかく強く設定しており、「スクランブル交際」「ラビットホール」といった恋愛嘲りソングですらも恋愛パワーに対する敗北が前提としてあります。そして分化しては消えるミクの在り方、これもやはり変えようがないでしょう。ミクがそういうものとして生まれている以上、何年経ってもそのままです。例えるならば、人の死ぐらい不可避で不変です。だから我々ができることは、せめてもの弔いしかない。花で飾り付けて、神聖性を付与して次の生に送り出すしかないわけです。

DECO*27 - マネキン feat. 初音ミク
マネキンのラストシーンあるある: ヴァンパイアのミクを服装とマスクで認識しているので一瞬迷う

初音ミクという、基幹から変化と死と再生を繰り返す奇妙な存在の、その変化と死を彩り飾り付けることで、存在を丸ごと肯定する。それが「MANNEQUIN/マネキン」なのだと思います。

おわりに

さて、これまでポケミクとMANNEQUIN、「アフターエポックス」と「マネキン」を並べて話してきましたが、もちろんこの2つは別のコンテンツです。そのため論理展開としてはあまり対応していません。

冒頭に示した要旨を再掲します。

・「アフターエポックス」はポケモンにおける「家に帰る」概念を祝福することをもって、ポケミクの終わりを祝福する作品である。
・「マネキン」は恋愛の終わりと「MANNEQUIN」の終わりをまとめて祝福する作品であり、それは初音ミクという存在のあり方への肯定に繋がる。
・両者を並べることで勝手に気持ち良くなれるので、一緒に気持ち良くなろう。

微妙にずれているのがわかると思います。これはMANNEQUIN/マネキンにおける恋する少女と初音ミクの主従を(ぶっちゃけると流れ的には確実にミクが主なのですが)定めなかったことに起因するのですが、それよりもこの2つを並べる気持ち良さは「派生ミクの虚構性を高める思い切りの良さ」にあると思います。TLでは割とポケミクにだらだら続いてほしいという声が多く、私もそう思っていますが、それでも一区切り、嫌でもポケミクの終わりを意識せざるを得ないタイミングで「ポケミクは妄想みたいなもんだけど、価値がある」とコンテンツ側から、ポケモンの中にある論理で言ってくれるのはとても優しいと思います。ポケミクには価値が!!あ!!!!る!!!!
また、「マネキン」でのミクたちは消え去ることをもって消え去る数多のミクを代表しているわけですから、ちゃんと虚構になってもらわないと筋が通らないわけです。そこでスパッと物語を終わらせて、次の曲ではしれっと似ても似つかないバニーのミクが出てくるコンセプトの強固さこそ、DECO*27が今もボカロシーンのトップを走る理由の一つかもしれません。違うかも。

それにしても、DECO*27がここまで初音ミクの根幹に迫ったコンテンツを作ってくれるというのは、本当に幸運だと思います。本記事では楽曲・MVによるミクの概念の借用とフィードバックについて論じましたが、DECO*27ともなればミクの概念を動かすのではなく、ある一点に固定する・動かしにくくする(DECO*27がミクで一貫性のある人形遊びを行い、その大きな影響力をもってあらゆるミクのイメージをそちらに引っ張ってしまう)ことも可能でしょう。

そういったことをせずに、こんなにも純粋にミクという存在を……

……純粋に……?


…………時に性欲を交えながらミクという存在を愛し、描き続けていることは、本当に貴重でかけがえのないことだと思います。筆者は特にミクがキャラクターとして好きとかはないんですが、それでも一流のクリエイターが題材の特性にぴったり沿って輝く姿というのは、遠くから見ても良いものです。

今回の記事は以上です。お疲れ様でした。


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