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2024-02-08 百閒堀

●LEAF 0491 百閒堀

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慶應義塾大学鶴岡タウンキャンパス内には美しい景観の堀がある。日が沈む夕方の景色は特に素晴らしい。この堀は「新百間堀」という名前になっているが、ここは江戸時代は鶴ヶ岡城内の堀だった。その大きさから「百間堀」と呼ばれていた。

江戸時代に作られた「鶴岡城下図」には「堀」と書かれているが、その大きさから、特別の目的があって作られたと考えられる。

鶴岡市の旧市街は、お城を中心に侍町と町人町の町割りが決められた。

城下町に生活用水や排水の上下水道の設備は必須。鶴岡では1610年以降、赤川の水量を減らすために、南部の熊出から城下西に青龍寺川が築かれ、大道堰や澤田堰がこの青龍寺川から引かれた。また、飲用・防火用に数多くの井戸が掘られ、大火が起こるたびに増設された。現在も藩政期の流路を見ることができるのですが、当時の流路の詳しい研究がされています。

近世城下町における伝統的水系構造と景観構成との関係に関する研究
- 山形県鶴岡市を対象として -

城下町鶴岡の水路を巡るお散歩も楽しいかもしれません。このコースいいですね。今度歩いてみよう。

(ア)JR鶴岡駅から国道345号線方向へ約500m進むと大道堰が見えてくる。

(イ)大道堰は約340年前に造られた農業用水路。青龍寺川の稲生分水口(いなおいぶんすいこう)から鶴岡市内を北東に伸びる水路で延長は約4.5km。大道堰沿いを上流に遡り、山形大学農学部キャンパスを右手に進むと鶴岡北高等学校の北側にでる。校舎北側を流れているのが外堀堰。

(ウ)外堀堰は約380年前の江戸時代前期に鶴ケ岡城三の丸を囲む外堀として造られた堰。西側の青龍寺川から水を引き城下町の北を通って東側の内川(うちかわ)に注いでいる。全長は約2km。現在は堰幅も狭められ大半が道路側溝のようになっているが、昔が忍ばれる石積護岸も所々に見られる。外堀堰沿いを上流に遡り、大山街道に出る。

(エ)ここが外堀堰の起点。ここを右折し東大海橋と西大海橋を渡って青龍寺川を左手に上流へ向かうと稲生分水工に出る。

(オ)ここが大道堰の取水口。さらに青龍寺川を200mほど上流に遡ると、

(カ)澤田堰取水口が見えてくる。澤田堰は鶴ケ岡城の百間堀に流れ込む要害として、青龍寺川、内川と並ぶ歴史的存在。

(キ)澤田堰を下流に辿る。昔、澤田堰は馬の洗い場として使われたため馬場堰(ばんばせき)とも呼ばれる。

(ク)途中、料亭の庭園内を流れるなど、昔の生活用水としての使われ方を現在に見ることができる。国道345号線方向に向かい、変則5差路を左折すると、

(ケ)新百間堀に出る。ここから羽黒街道を横断し

(コ)鶴ケ岡城二の丸にでる。二の丸沿いには見事な桜並木があり、満開の頃は県内外からの見物客で賑わうスポット。二の丸の北側から鶴ケ岡城址に入ると、その閑静な雰囲気に驚かされる。城址の石垣一つひとつから醸し出される風情に、清楚で優美な描写で有名な藤沢周平小説の世界へと引き込まれそうだ。一の丸から荘内神社の東門を貫け、内川に差し掛かったところが、朱が映える

(サ)三雪橋(みゆきはし)。三雪橋を左折し、内川沿いに下ると、整備された

(シ)内川公園が見える。内川公園の手前に見える放水路が外堀堰の末端。放水路の上流には、昔のままの外堀堰を見ることが出来る。

(ス)内川公園に戻り、内川の開運橋を渡り右折すると終点の

(セ)本町川端通バス亭である。


藤沢周平は、架空の藩を舞台として、おもに下級武士を主人公とする小説を多く著した。その藩の名としてしばしば与えられたのが「海坂藩」である。藤沢によってこの藩のモデルについての明言はされなかったが、藩や城下町、領国の風土の描写は、藤沢の出身地を治めた庄内藩とその城下町鶴岡がモチーフになっていると考えられている。

小説の記述から「海坂藩城下図」も作られています。作家の井上ひさし氏がつくられた地図が最初らしいです。確かに鶴岡とそっくりですね。

五間川 = 内川 天神川 = 青龍寺川

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