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2024-02-10 臺灣吊鐘花

●LEAF 0507 臺灣吊鐘花

カンブリアンゲーム(ニューイヤーカンブリアン2024)

ドウダンツツジ(灯台躑躅)は、ツツジ科ドウダンツツジ属の植物。中国名は臺灣吊鐘花。和名の「ドウダン」は、枝分かれしている様子が昔、夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じたもの。

 ドウダンツツジ(Enkianthus perulatus)はツツジ科ドウダンツツジ属の落葉低木である。本州の静岡、愛知、岐阜、紀伊半島、四国の高知、徳島、九州の山地に局所的に自生している。ドウダンツツジは江戸時代の頃既に庭木として利用されていたと思われる。
 庭木として注目されるのは明治以降のことである。軍人であり政治家だった山縣有朋は、1894 年から 1897 年にかけて京都の東山に無隣庵庭園造っている。その際に山縣は施工にあたっていた小川治兵衛に当時使われていなかった、モミ・ドウダンツツジ・ヒイラギ・ナンテンなどを植えるように指図して植治を驚かせたといわれている。この後、植治は平安神宮神苑、對龍山荘庭園、円山公園等の作庭に携わり、その後の日本の近代庭園のデザインに大きな影響を及ぼすこととなる。しかしその作庭理念は、前述の通り無隣庵庭園の作庭の際に山縣から学んだものであった。山縣は軍人でありながら芸術に対する造詣も深い人物で、明治新政府の要人として欧米を巡視した際に、西洋庭園文化も吸収したことであろう。山縣を造園面から評価すると、当時の西洋庭園をそのまま日本に模倣するのではなく、西洋の自然主義思想を背景に日本庭園のデザインを表現したことは非常に意義深い。すなわち、それ以前の日本庭園は景勝地、あるいは仏教的自然観を象徴的に表現することに重きを置いていた。ところが、山縣、そして植治の作庭理念は身近な自然を等身大に表現することにあった。そして、ドウダンツツジは伝統的な日本庭園を排し、新しい日本庭園を表現するための素材として重要な一翼を担うこととなった。しかし、山口県萩出身の山縣にとって、ドウダンツツジは身近な自然の植物であったとは考えにくい。おそらく、山縣が生まれ育った時代には既にドウダンツツジは庭木として利用されていたが、伝統的な日本庭園に植栽されるにはいたっていなかった、ということであろう。いずれにせよ、これ以降ドウダンツツジは庭木、日本庭園だけでなく、公園や街路等に多用されていくことになる。

樹の文化史 ドウダンツツジ

家の坪庭のドウダンツツジが咲き始めるのは4月の下旬。サクラが散った頃です。私が子供の頃はもっと小さい木だったのですが、日当たりが良くなったせいか、どんどん大きくなりました。


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