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2024-01-19 大平の棚田

●LEAF 0266 大平の棚田

カンブリアンゲーム(ニューイヤーカンブリアン2024)

山形県は名前の通りで山間地が多い。県域の大半 (85%) を山地が占め、総面積に対する森林の割合は 75% 、農業用地の割合は15%である。

中山間地が多いということは、棚田もたくさんあります。

落人伝説がある山間地の集落には棚田が多い。鶴岡市の大平にある棚田も規模は小さいですが美しいです。特に春の景色は素晴らしい。大平は安部貞任の子孫により開かれたという。


2020年の国勢調査によれば、大平地区の世帯数は8世帯、人口は33人となっています。

大平の場所は、梵字川の支流にある「八久和ダム」と大鳥川沿いにる「八久和発電所」の中間にあります。

大平の近辺には、「八久和ダム」から「八久和発電所」へ続く水力発電用の送水管が通っています。

かって大平の地にあった「朝日村立大泉小学校大平分校」。現在は公民館になっています。


1951年昭和26年)に東北地方を供給エリアとする民間電力会社として発足した東北電力は、八久和発電所の建設を計画。八久和川に高さ97.5メートルの八久和ダムを建設し、貯えた約5,000万立方メートルもの八久和山(標高991.2メートル)を隔てて向こうを流れる大鳥川(赤川水系の本流である赤川の上流部の別名)へ落として発電するというものである。ダム建設に伴い、15世帯97人が下流の庄内平野農地などへと移転することになった。事業は1953年(昭和28年)に着手。洪水豪雪、地質条件の悪さといった悪条件下にも屈することなく工事が進められた。工事にはのべ2,000人もの人員が動員され、大型の建設機械を導入することで工期の短縮を図った。1956年(昭和31年)、高さ28メートルという小規模なアーチ式コンクリートダムが完成し、これの送水により八久和発電所は出力2万4,900キロワットで運転を開始。そして1958年(昭和33年)に八久和ダムが完成し、これに伴い八久和発電所は当初計画通りの出力6万キロワットを達成した。

八久和発電所は、太平洋戦争終戦後GHQとの敗戦処理の折衝を矢面に立って行った白洲次郎が東北電力初代会長時代に関わった発電所。八久和ダム左岸天端脇には、これを物語る記念碑が在ります。

八久和堰堤を基幹とする八久和
発電所、 落合発電所等
一連の建設を こんなに立派に
やりとげた人々と 私は同じ釜の
めしを食った人間である
これは 私の心からの誇である
昭和三十二年冬
        白洲次郎

八久和ダム左岸天端脇の記念碑

実は、八久和ダムへ辿り着くのは容易ではないです。以前は月山ダムの南側から通ずる八久和林道(和尚隧道)から行けたらしいのですが今は通行止めになっています。行くとしたら県道349から鱒淵林道(八久和峠)を越えるルートしかなく、ここは車はなんとか通れますが非常に危険な道です。この写真は八久和ダムから眺めた景色(ダムの上流側)で、2005年頃に八久和峠を越えてダムまで行った時に撮影したものです。静寂に包まれた実に美しいところだったです。

ダム建設に伴い15世帯97人が庄内各地に移転したそうです。こんな山深いところにも集落があったのは驚きですが、私が子供の頃に近所にあった食堂「姫百合」さんはこの時に鶴岡に移転した方だそうです。「姫百合」さんはその後さらに移転して「渓谷姫百合」というお店になった(現在は営業していません)のですが、渓谷という名前にはこんなルーツがあったんですね。

當地は東田川郡大泉村大字上田沢字八久和と称し、戸数十五、人口九十七、住民は藤原氏の末裔であるとも云われ、六百年前に定住したものと推定される。耕地は水田十三町歩、畑五町歩を有し、産物は山菜・茸・栗・狩猟・養蚕・木炭、特に八尺木と称する薪用材は、定住以来傳統的に鶴岡まで流し、領主とも関連深く、市中に賣捌く等、四季を通じて收入が絶えなかつた。早くより鶴岡と交易のため、文化も導入され山間僻地としては進歩的平和郷であつた。然るに昭和の初期より電源の好適地と目され、数回測量されたが何れも當地を水沒させる計画ではなかつた。第二次世界大戰后電力界は大貯水池式を採用、東北電力株式会社は、昭和二十七年五月十日ダム構築により八久和部落が水沒する事を発表した。この通知に部落民は、全く暗雲に包まれた心持で、なす所を知らず徒に東奔西走の有様であつた。本交渉に入るに、二回の折衝が當地及び落合に於いて行われたが、喧々囂々機未だ熟せず、何れも纏る所なく決裂した。この間部落民は、愼重に事を進め、福島県只見川大電源地帶その他の実情視察を行い、ダム構築は下流荘内平野の美田、一万数千町歩の旱水害を救うと同時に、発電によつて社会福祉に貢献することを思い、大乘的見地より部落移転の決意を固め、交渉方針の準備を進めた。本交渉は、第三者の介入をさけ、会社側は総務部長を主班とし、大泉村長・同議会議長を立会人として、昭和廿八年八月廿一日より當地で開催された。部落側は當初集團移転を希望したが適地なく、遂に自由移転・金銭補償を承諾、補償物件は一件毎に折衝、移転期日は昭和卅年十一月卅日、氏神は當地に遷宮、記念碑を建立する事を条件として、九月十九日妥結調印式を挙げた。かくの如く、本交渉開始以來僅か一ヶ月で円満解決した事は、他に例を見ない処である。これは両者共に相手方を信頼し、政治的工作や掛引なく誠意を以て事に當り、立会者の正しい後援に依るもので、ひそかに誇りとする処である。昭和卅年八月廿二日、氏神高安大明神の祭日に當り、遷座式と離村式を挙行、次いで墓地移転をなし、全戸転居を完了して、我が祖先が當地に足跡を印してより六百有余年の歴史を閉じた。在りし日の一木一草にも想いは盡きず、住みなれた山河への思慕は、誠に断ち難いものがあるが、電源工事の完成と社会の幸福を心から祈りつゝ、新天地を求めて転居したのである。こゝに湖底に沒した八久和部落移転經過を記し、後世に傳える次第である。

鱒淵林道にあある高安神社境内の記念碑(全文)


八久和峠(鱒淵林道)は、かつて置賜地方庄内地方を結んでいた山岳道路朝日軍道」のルートだった。

長井市草岡 - 長井葉山 - 御影森山 - 大朝日岳 - 西朝日岳 - 三方境 - 以東岳 - 大鳥池 - 茶畑山 - 高安山 - 八久和峠 - 鶴岡市鱒渕

前から気になっていた、朝日町と朝日村は道で繋がったいたんですね。一本の道の物語は興味深いです。




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