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貴女はだれ ファミリーヒストリー

先祖調べが有る程度進み。
戸籍から調査の対象を、墓石や位牌に広げ。
現地調査に行き、本家にもお邪魔し。
本家で繰り出し位牌を見せて貰った時に見つけたお名前。
「つぎ」さんという方、このお名前は初めて見た名前でした。

実は、他の方は名前も戒名も書かれており。
〇〇の母、〇〇の妻などの続柄。
享年〇歳などの記載があるのに。
この「つぎさん」だけは名前のみ。
先祖調べをしていて、これ以上の謎はありませんでした。

ちなみに、繰り出し位牌というものをご存じ無い方の為に説明をしますと。
位牌は、基本的に一人一位牌。
古い方ですと、夫婦位牌と言う事も有ります。

しかしながら、古い家になると仏壇の中に位牌を置くスペースを確保するのが難しくなります。なぜならば、先祖が多すぎるので位牌の数が増殖していくからなのです。。

そんな時に使われるのが「繰り出し位牌」というものです。
位牌ですから、当然。位牌の形をしていますが。
中が空洞になっていて、頭の部分(傘)が取れる様になっています。

木の板に名前を書いて、その空洞に収めていきます。
1つの位牌で、何人も収納出来る為。古いお宅には意外とあったりするのです。見たことの無い方も意外と多いかも知れません。
現物を見たい方は、リンクに飛んでくださいね。

さて、話を戻します。
その繰り出し位牌の中に収められた、つぎさん。
この方が、一体だれなのか。
戸籍を見ても、お名前が出て来ず。
頭を抱えていた所に飛び込んできたのが本家からの「墓終いするから」という連絡でした。10月に本家のご当主が亡くなり、代変わりをして。
新しいご当主が、県外にお住まいで有ることが理由とのこと。

私も、県外に住んでいますし。
中々、墓に参る事は難しい。
嘆いていた所、両親が
「もう、ご先祖様にご挨拶が出来なくなるから拝みに行ってくるよ」
とのことで、本家の墓まで行ってくれることになりました。
本家といっても、私の祖父の代で分家をしていますので。
曾祖父母、高祖父母はそちらに眠っています。
もっと言うと、祖父母は父親が兄弟なので・・・。
墓終いするお墓は、祖父と祖母の両方の父方が眠っている場所です。

そんなこんなで、両親が墓に到着して写真を撮って送ってくれて。
リアルタイムで通話しながら、色々と確認して貰いました。

墓の側面には、安右エ門さん(高祖父)と、妻”つぎ”の文字が書かれていて大混乱に陥りました。高祖父は安右エ門で間違い有りませんが。
高祖母はつぎではなく、つ祢(つね)なのです。

戸籍でも、名前は確認済みで間違いは有りません。
ちなみに、つ祢さんは二男宅(祖母の家)で亡くなっており。ここのお墓には入っていない筈なのです(こちらは長男宅の墓で、祖父の実家です)。
先に高祖父が亡くなっていますので、後妻さんはいないのは確かです。

祖父方の曾祖父が、最愛の母が亡くなり。
お骨は納めていないが、母親の名前も彫った。
それが妥当な線だとは思うのですが。

では、なぜ「つぎ」さんと彫ったのでしょうか。
さすがに息子は間違える訳無いですし、可能性としては「つ祢」さんが、普段から「つぎ」さんと呼ばれていた可能性があると思うしか無いのです。
名前と、呼び名が違うことで、頭を抱える曾孫の私。

先祖調べをしている方の中では、有名なお話があり。
昔は、嫁様が結婚した時。
婚家の家族や親戚に、嫁と同じ名前の方がいらっしゃると嫁は改名させられるらしい。そんな話が、チラホラ出て来ます。

じゃあ、高祖母も自分と同じ「つね」という名前の方が婚家に居たのかも知れない。そう思いましたが、つ祢さんがお嫁に来たときの戸籍には、他には「つね」さんはいらっしゃらなかったのです。

もしかすると、戸籍には居ない嫁に行った娘辺りが「つね」さんだったのかも知れない。私は、落とし所をソコに求めました。
昔ですから、基本同じ村内での結婚も多いですし。娘と嫁が同じ名前では都合が悪かろうと納得しようと思ったのです。

でも、どこか気持ちが悪い。
喉に魚の骨が刺さったような感じ。

と言うわけで、戸籍を見たり。
色々と記憶の引き出しを確認していたところ・・・。
子供の頃の祖父に聞いた話を思い出しました。

祖父と、祖父の兄が話していた時のこと。
「つぎさんが」という言葉が何度か出ていて。
つぎさんの思い出話でもしていたのでしょう。
この二人にとって、つ祢さんが、つぎさんで有るのならば祖母に当たりますし。同居していたことも有るかも知れません。

当時、二人の話を聞いていた私は「つぎさんって誰」と聞いた記憶があります。祖父は「つぎさんは、つぎさんだ」と答え。
納得の行かない私は「どう言う人」また疑問を投げかけた記憶があるのです。すると祖父がしばらく考え。
「次の人だから”つぎ”さんなんだよ。おつぎさん。最初の人じゃない」
そう答えたのです。子供ですから、聞いても分からないな。
そう思って、そこで質問を終わりにした事を思い出しました。

私の祖父と、その兄は、私と同じく先祖調べをしていて。
寺に過去帳を見せて貰いに行ったりと、精力的に調べていたので。
きっと「つぎさん」の事も色々と調べて検証していたのかも知れません。

この記憶から推測されるのは
「最初の人ではなく、次の人だからつぎさん」その言葉通りに考えればですが。安右エ門さん(高祖父)には、前妻がいて。
つ祢さんは、後妻さんである。
ということでしょうか。

気になって、持っている資料を引っ張り出してガッツリ読み込む作業に入りました。実は、この家。幕末から明治に掛けて謎だらけなのです。
一般的に考えても徳川の時代から、新政府に移りバタバタしていた時代で情報が薄いのは当然ですが。我が家に至っては、過去帳や墓石の情報を精査しても、なぜか余計に混乱するのがこの時期だったりするわけです。

何か、突破口が見つかる様な気がして。
喉に引っかかった骨を取り出そうと、必死に藻掻いた結果。
新しい見解が生まれました。それを今日は書いてみようと思うのです。

時系列は前後しますが、総本家と思われるお宅に数年前にご自宅にある過去帳と、墓石のお写真、簡易家系図をいただいておりました。

すると、このお宅も幕末の記述が非常に難解でした。
我が家と違い、格の高いお宅ですので。
2つの名前を、代々回しながら襲名していたお宅です。
分かった結果から言うと、6代前で我が家は分家していたようです。

過去帳をから、墓誌を作った子孫は・・・。
当然、過去帳を見て混乱します。

仮名にしますが。
「太郎」と「次郎」の2つの名前を襲名し続けているとします。
すると「次郎の母」「太郎の祖母」という感じで過去帳は書かれることになります。しかしながら、よく考えると分かりますが。
太郎さんも、次郎さんも複数名いらっしゃるのです。
襲名とは、代々名前を引き継いで名乗ることですので。

ですから、太郎の母は当然何人かいらっしゃる訳です。
時代が違うから、混乱しないでしょ?って思いますが。
そんなに甘く無いのです。

長生きして90歳越えの方もいれば。
今と違って、感染病や出産で20代後半で亡くなる方も少なく無いですし。

と、思った所で。
あ、それかも!と思ったのが、色々な古い郷土史に
明治初期に今で言う、法定伝染病が流行し多くの方が亡くなって国が対処に乗り出した。という記述が有ったのを思いだしたのです。

調べて見ると、長崎に寄港したアメリカの商船からコレラ(虎狼狸)が流行った。とか南西戦争の戦線でコレラが流行り、兵役を終えた男性が帰郷してコレラが流行り、全国的に多くの方が亡くなったという記録が有りました。同時に、江戸の安政大地震でも江戸でコレラが流行ったという記述も。

私の高祖父の父が、明治12年に亡くなっているのです。
本家でも、明治12年に若い世代(今で言う現役世代で子供が小さい)が複数名亡くなっている。

コレラの状況を確認すると。
明治12年が最も流行したらしく、全国で162,637人が罹患。(うち105,786人死亡)という最悪の事態が起きたらしいです。この頃に、コレラの守り神に引っ張りだこだったのがあの、アマビエ様だったという。
コロナ渦を生き抜いた我々からしたら、人ごとでは無い感じがします。

そこから、導き出した結果。
明治12年に本家では、小さな子供を持つ太郎さんが亡くなった。
先代の太郎さんの妻が、安政期に亡くなっていて。明治12年の「太郎の妻」さんは前妻さんと、後家さんかと勘違いしそうですが。
安政期に亡くなった方は、明治12年に亡くなった太郎さんの祖母に当たる人の様でした。
明治12年に夫の後を追うように、無くなった太郎の妻は明治12年に若くして亡くなった太郎さんの妻ということでしょう。

同じ家の中で、コレラが流行れば家族も罹患して亡くなる。
16万人が罹患して、10万人が亡くなるという死亡率の高さを見れば分かる気がします。これで、総本家の過去帳の矛盾が消えました。

さて、ここで総本家から離れて。
我が家の先祖も考えてみます。
明治12年に当時では老齢とはいえ、まだ若い当主が死亡しています。
この方がコレラだったとしたら・・・仮説ですが。
同じ家族内でも、コレラに罹った人が出ても不思議では有りません。

当主の息子は、当時30代。
嫁と子供はいたと考えて問題無いと思います。
その、嫁と子供も罹患し、父親も死亡した。

そして、明治19年を迎え日本で初の戸籍が出来上がります。
この時に、息子(高祖父)は39歳独身。
翌年、20代の妻を迎えています。

翌年には、曾祖父が生まれ。
翌々年には、もう一人の曾祖父が生まれています。
明治12年に40歳の独身男なんて、どう考えてもおかしいのですよね。
最初は、幕末の諸々で家業も続けられなくなり。
長男は結婚できたけれど、二男は家庭を持てなかったのかと思っていました。しかし、どうやらそうでは無かったようです。

二男が40過ぎて嫁を取った、20代の妻の名前が墓石に「つ祢」であるのに「つぎ」と彫られている件については・・・。
孫である祖父が「つぎの人だからつぎさんで、最初の人ではない」というのならば。

当然、高祖父には1人目の妻がおり。
何かの理由で(コレラか?)、妻子も亡くなり。
明治19年の頃には、妻子が居なかったことで初婚の様に見えただけだったでしょう。古い墓を目の前にして、生前祖父は「これは子供の墓」「これが、子供の母親の墓」と手を合わせていたのを思い出します。
我が家の墓は、墓石が無く土が山にされていて大きな石が置かれていただけの墓ですから。眠っている方については、正直分からないのです。

ちなみに、高祖父の兄に当たる人の息子は、明治19年戸籍では既に家督を継げる年齢に達していました。数歳しか違わない兄と弟で、ここまで子供の年齢が違う筈が無いのですよね。
やはり、高祖父にも妻子がいたのでしょう。

昔は二男は、部屋住みと言って嫁も取れない身分だと言うお宅もあったようですが。明治初期、我が家は茶農家を大々的に行っており。
繁忙期には、人を雇って作業をしていたようですので・・・。二男が嫁を取れない状況では無かったと思われます

やはり、この状況を加味すると。
本家も、我が家もコレラで家族を失ったと思った方が間違い無いのでしょう。そして、つ祢さんも、後添えさんという意味で「つぎ」さんと呼ばれていたので。孫達は、「つぎ」さんが本名だと思い込んでいた可能性があるのではないかと結論付けて差し障り無さそうです。

今でこそ、感染病対策が出来ますが。
当時は、相当難しかったのでしょう。

過去の家庭を垣間見て、総ての辻褄が合った本日でした。