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求む My familyヒストリー 本籍とは

最近、NHKのファミリーヒストリーを見た方で「私も自分のルーツを調べたい」と思われる方が増えたのか?
先祖調べをしています、という話をちらほら聞くようになりました。ほとんどの方が、最初に戸籍を取得するというアクションを取るのですが。その時に、最初に悩むのが「本籍」という存在だと思います。

本籍って、住所と違うの?
住所は、住民票と同じ場所だけど。
本籍は、何か違うよね。

人によっては、本籍と住民票の住所がほとんど同じなのに番地だけ違う。
実際に地図で調べたら、本籍にある住所は存在しない。などという方も居られる事でしょう。

迷路に迷い込んだ方も少なからずおられるのでは無いでしょうか。
実際、本籍についてGoogleで調べて見ても分かりますが。
どの検索結果も、微妙に説明が違い。フワッとした内容になっており、余計に分からなくなるのです。

正直な所、本籍は・・・。
今は存在はするけれど、ほぼ無いような枠組みの中にある「過去の遺物」に近い物だと私は感じています。そこを今回は解説出来たらと思っています。よろしければお付き合いください。

そもそも本籍地というのは、戸籍の成り立ちから知らないと理解出来ないと思っています。では、一緒に考察していきましょう。

現在の戸籍制度が出来たのが、明治19年です。
明治初期に、日本は開国を迫られ。新政府(明治政府)は欧米に負けない近代国家を作ろうと躍起になります。その時の1つの政策として出て来たのが戸籍制度だったそうです。

江戸期までは、宗門人別改帳や分限帳などで有る程度の国民の数などを把握していましたし。耕す農地に対して、年貢を課して納めさせるという制度は確立されていました。

しかし、日本国として共通のルールで運用されて居らず。各国(藩/領地<天領等>)で独自ルールで運用されていたようです。当然、寺社仏閣などが持つ土地は、また特別なルールが当て嵌められていたりと、国が一括で一定ルールで治めようとした時、カオスに近かったことでしょう。

とある文献に依れば、全国共通の徴税のルールを作る為に戸籍作りを急いだとのこと。江戸時代は農家が農地を所有し耕作をすると、農地の等級と広さにより税を掛けられる。そんな状態でした。
これは、豊臣秀吉の行った太閤検地からはじまります。

その一歩先を行くことで、新政府は税収を上げようとしたのでしょう。

国内の土地を所有する、総ての国民に税を掛ける=宅地などの総ての土地に税金を掛けて行くことを念頭に置いたそうです。そう、今で言う所の固定資産税ですね!

こうすることで、農作物からしか税収が無かった状態から、一気に税収が増えるのです。土地を持つだけで、税金を徴収されるのですから当然ですが。

土地一筆に付き、地券1枚を発行する。これが、当時の重要課題だったそうです。ですから、当然土地を所有する国民総てを把握する必要があります。

地券と、所有者の住所(戸籍)をリンクさせることで今で言う所の固定資産税の取りこぼしが無い様に枠組み作りを開始したとか。

そのためには、全国共通のルールを作り。土地の所有者のリスト(旧土地台帳)を作るだけではなく、戸籍制度の確立も急務だったわけです。

政府を運営していく為の税収を作り上げる。これが、近代化社会の第一歩と考えたという事ですね。

そんなことから、明治新政府は各自治体に戸籍作成についての一斉に通達を出したそうです。
「村々の土地に番号を振り、国が示す共通のルールに則って戸籍を作ること。期限も設けるので、滞りなく行い政府に報告すること」
まあ、そんな感じだったようです。某地域誌に、戸籍を作成する際の詳細が載っていました。

これが、かなり強引な納期(期限)だったようで。普通に聞き取りをして、ルールに則った戸籍を作っていたら間に合わないとう状況だったようです。その地域誌に依れば・・・。

自治体の職員は、各地域の家々を自ら回ったそうです。

まずは、村全体の戸数分の木の板を用意し、1から通し番号を墨書きし。
それを、1番から順番に、表札に釘打ちしていったと言うから驚きです。今、勝手に役所が家に板を釘打ちなどしたら大変なことになります。

勝手に釘打ちした後、村全体に通達を出します。
「自宅の門戸を確認せよ!門戸に打ち付けられた板の番号順に、役所から聞き取りが回る。その際は、必ず家に居るように。一族について聞き取りをするので、必ず家に居て対応すること。申請内容に嘘偽りは一切許さない」
こんな感じの通達を回したようです。

そして、役人が手分けをして各家を訪ね。家族の生年月日、年齢、続柄、従前情報等々を聞き取り帰ったと言うのです。
そして、その門戸に打ち付けられた番号が、戸籍の番地になった。と・・・。

お分かりになりましたでしょうか、本籍の住所は明治期に急場しのぎで役所が振った番号だった可能性すらあるのです。

その後、合併や併合。
区画整理による、住所表記の変更などがあり。
番地が変わったり、統合して古い住所の町名が無くなったり。

人によっては、転居した際に「住所と同じ扱いだろうから、本籍地も変える」という真面目な方も居たでしょう。そうなると、本籍地もコロコロ変わる方も少なからずいらっしゃいます。

諸所の事情はさておき、本籍地で最初に戸籍を一括管理し始めたことから。
今現在も、転籍していなければという前提ですが。
作成された当時のままの自治体で戸籍を保管しています。
今更、住居地ベースで戸籍を編成し直すのは大変だからでしょう。

もっと言うと、本籍地という幽霊の様な制度が不具合なく運用されているのなら。今は無理して変更をする必要性は感じない。というのが本音でしょう。ただ、我々一般市民には非常に謎な「本籍」という物があるという感じになってしまっているのでは無いでしょうか。

こんな事から、明治19年戸籍の住所を見れば先祖がどこに住んでいたか分かる。このセオリーが生まれます。残念ながら、古い戸籍が破棄されてしまっていると、例えば大正時代の戸籍の本籍は明治19年と同じか?と聞かれれば。同じかも知れないし、同じでは無い可能性もある。としか言えません。

私の実家の例で言いますと。
明治19年式の戸籍は
静岡県庵原郡小河内村〇〇番地です。
小河内村は、旧小島藩の領地で小河内村です。
途中で小島村に編入し、清水市に合併され。今は、静岡市清水区です。
編入・合併の際に本籍地の市町村に関しては訂正されています。
当然、戸籍を管理する自治体が変わったので便宜上書き直しただけでしょう。町名や番地は、一切訂正は入っていません。

代々、小河内村の住民だった先祖は、途中で静岡市に出て商売を始めます。
商売が軌道に乗ったことで、本籍地を昭和20年代に静岡市に移します。

ですから、昭和40年代生まれの私が生まれた時の本籍地は「静岡市」になります。この静岡市の戸籍も、昭和20年代当時の住所表記であり、町名は現在も存在しますが番地は区画整理の関係か既に無い番地です。

要するに、既に無い土地(番地)に本籍を置いているのです。
というか、置く事が可能なのです。結構本籍地っていい加減なのです。

私など、夫と結婚する際。
家制度など無い時代ですから、結婚すれば夫婦の戸籍を新しく作る事になります。

参考として、戦前までは家制度でしたから、夫の所属する戸籍の中に嫁(婦)として記載されるだけになりますが。この辺りも知らないと戸籍を調べる時にややこしく思うかも知れません。これも追々書いていきたいと思います。

脱線しましたので、話を元に戻しますね。

戸籍を新しく作る際に
「新戸籍の本籍地はどちらにします?」と窓口で聞かれました。
若い二人は、戸籍の事など知識はゼロですし。
婚姻届を出しに行き、ドキドキしているのに頭の中は「????」です。

夫が「それって、どうやって決めるのですか」と聞くと。
皆さん、お好きな番地で登録されていますが。お父様と同じ番地にしますか?それとも、お兄様と同じ番地でも良いですよ。
というので、夫は「じゃあ、家族と同じ番地でどっちでも良いです」と適当に解答して我が家の本籍地が決定しました(笑)
今思えば、オイオイオイって感じでは有りますが。そんな物です。

ですから、極端な話。
皇居の住所を本籍で入れるのも可能です。
竹島においてやる!でも可能なのです。

ただ、人間生きていくと戸籍謄本(抄本)が必要になることが出て来ますので。利便性を考えて住居地に持つ方もいます。
今後、戸籍を必要としたときは本籍地に戸籍を請求する訳ですから。
それも、考えて本籍地を置くのがベストな気がしています。

ということで、本籍地についてでした。