もしタバ

【もしタバ】もし名もない会社の新卒二年目が田端信太郎のオンラインサロンに入ったら


はじめに

これは「田端大学の塾生」という錯覚資産を手に入れた若者が、個人の名前で仕事する『ブランド人』になるまでの成長物語です。

ちんけなプライドと恥を捨てて、全力でパンツを脱いで書きました。

今までお世話になった田端大学のみんな、塾長、そして、これから出逢う未来の塾生に届くことを願って。

※本作品は、田端大学・一月定例会に向けて執筆した短期集中連載「もしタバ」をまとめたものになります。


|目次|

プロローグ
第一章 ぼくは『田端大学』と出会った
第二章 ぼくはパンツを脱いだ
第三章 ぼくはブランド人から学んだ
第四章 ぼくは波に乗った
第五章 ぼくは錯覚資産について考えた
第六章 ぼくは星座を描いた
第七章 ぼくはパンツを脱ぎきった
第八章 ぼくは「ブランド人になる」と言い切った
エピローグ
あとがき


プロローグ

 ぼくが田端信太郎のオンラインサロン『田端大学』に入学したのは、昨年の六月下旬、ちょうど半年前のことだった。

 それは突然のことだった。ほんの少し前まで、ぼくはまさか自分が田端信太郎のオンラインサロンに入るとは思っていなかった。それまでは、オンラインサロンなんて聞いたこともない、名もない会社の新卒二年目にすぎなかった。田端信太郎とは縁もゆかりもなかった。

 ところが、思いもよらないツイートがきっかけで、田端大学の塾生になることとなった。そのため、月額一万円に近い出費はひよっこ社会人の財布には痛かったが、田端大学に入学したのである。

 塾生になったぼくには、一つの目標があった。それは、「ブランド人になる」ということだった。ぼくはそのために塾生になったのだ。

 それは夢などというあやふやなものではなかった。願望ですらなかった。明確な目標だった。使命だった。ぼくは、ブランド人に「なりたい」とは考えていなかった。ブランド人に「なる」と決めたのだ。

 しかし、そう決めたはいいものの、どうしたらそれを実現できるか、具体的なアイデアがあるわけではなかった。前述したように、これまで個人の名前で生きていくこととは無縁の生活を送ってきた。だから、自営業はおろか、フリーランスの定義もよく分かっていなかったのだ。

 しかしぼくは、それを全く気にしていなかった。なんとかなる――と単純に考えていた。ぼくにはそういうところがあった。考えるよりも先に、まず行動するのだ。

 田端大学に入学したのもそうだった。「どうやったらブランド人になれるか」を考える前に、まず「ブランド人になる」と決めてしまった。そして、そう決めたら考えるのをやめ、すぐに行動に移したのである。


第一章 ぼくは『田端大学』と出会った

 その出会いは突然、訪れた。

 昨年の二月、プロ無職という肩書きで活動する人物の影響で、ぼくはツイッターアカウントを開設した。新しく作ってみたはいいものの、特に何かを発信するわけでもなく、ただ遠くから「インフルエンサー」と呼ばれる存在たちを眺めていた。

 すると、一つのツイートが目に留まった。

 田端信太郎。オンラインサロン。初めて出会う名詞たちが並んでいた。少し調べてみると、どうやら田端信太郎という人物はサラリーマンらしい。しかも、そこらのプロ野球選手よりも稼ぐのだとか。なんとなく「すごい人っぽい」ことは、伝わってきた。

 このときのぼくは、途方に暮れていた。

 社長の右腕として入社したベンチャー企業で、一年目はアパレル系ECサイトを運営するノウハウを徹底的に叩き込まれた。着実に実績を重ね、ある程度の信頼が社内外から溜まっていた。順風満帆な社会人デビューである。

 しかし、二年目を迎え、入社前から約束していた社内起業のために動きを切り替えた途端、何もかもがうまくいかなくなった。ヒントを与えてくれていた社長という存在は側におらず、一人ただ孤独にビジネスと向き合う。ただ、知識も経験も、何もかもが不足していた。給料泥棒のような有様に頭を抱えていたぼくにとって、このツイートは神様からのお告げのように思えた。

 月額8800円。決して安くはない。新卒二年目の財布事情を考えると、多少の不安は残ったが、現状を変えるきっかけがほしい。清水の舞台から飛び降りる気持ちで、申し込んだ。田端大学一期生の募集である。

 得体の知れないコミュニティに加入して、最初にぼくが目にした言葉がこちら。

 これは、とんでもないところに来てしまった――そう後悔した。しかし、今となっては当時の気の迷いこそ、同僚たちにご乱心と揶揄された怪しい投資こそ、ぼくの『パンツを脱げ』童貞を捨てた瞬間だったのかもしれない。


第二章 ぼくはパンツを脱いだ

 田端大学に入学して一ヶ月が経っても、ぼくはこのコミュニティの使い方がいまいち分からなかった。

 基本的な活動は、オンラインのフェイスブックグループにて行われる。塾長である田端信太郎が出した課題図書を塾生たちは読み、その本に関する考察をアウトプット。すると、塾長自らがコメントを返してくれるような仕組みである。

 ところが、塾長のコメントは基本的に辛辣で、当時のぼくはなるべく関わらないようにしていた。ただでさえ新規事業が軌道に乗らず凹んでいるのに、傷口に塩を塗られるような絡まれ方はごめんだったからだ。それはそれは微塵も、パンツを脱げていなかった。まさに、パンツが股間に張り付いて剥がれないような状態である。

 パンツを脱がないための言い訳は、無限に思いついた。

 田端大学の面々が一堂に会するイベントのときもそうだ。オフラインの定例会が月一で開催されるも、その会場は東京。関西にいた身としては、参加は難しいと諦めていたのである。

 しかし、ここで転機が訪れる。

 田端大学では毎月、最も優秀な発信をした人物にMVPを与える制度がある。MVP受賞者は特典として、塾長とのサシ飯に出かけられる。その初代MVPに輝いた福本さん(@sfkmt)はなんと、大阪在住の方だった。

 ぼくは驚いた。大阪に本社を置く企業の代表取締役であるにも関わらず、平日の夜に開かれる定例会にはちゃっかり参戦されていたからだ。そして、圧倒的に質の高い記事(以下参照)をアウトプットされ、見事にMVPを掻っ攫った。

 一度、直接お会いしてみたい。初代MVPに輝いた福本さんはブランド人になるべく、どのように田端大学を使い倒そうと考えているのか、聞き出したい。そう思ったぼくは恥とプライド、そして履いていたパンツを脱ぎ捨てて、アポを取った。八月の出来事である。


第三章 ぼくはブランド人から学んだ

 それは一時間にも満たない時間だった。眩しい金髪が少し目にかかる福本さんは淡々と、行動の裏側にある思考を語ってくれた。大きな波を見つけること、それを乗りこなす準備を整えておくこと。彼の戦略論は田端大学のみならず、社会で名を上げようとする者すべてに通ずる普遍性があった。

 これが初代MVPの実力。当時のぼくは、自分自身との実力差に愕然とした。福本さんはその親しみやすさとは裏腹に、あまりに遠い存在のように思えた。

 しかし、それと同時に、福本さんのような遥か先を走る人物が同じ学び舎にいる心強さを感じた。彼のような存在から吸収し続ければ、必ずブランド人に近づける。ブランド人になると決めた以上、田端大学の猛者たちから学び、本質を盗むことは必要不可欠だった。

 福本さんとお会いしてから、ぼくは自身のツイッターアカウントを見直した。

 ちゃんと波に乗れているだろうか。そもそも、波を見つける努力をしていただろうか。当時のぼくは、大海原で波に乗る福本さんがいたとしたら、浜辺で自己満足に過ぎない砂のお城を作っていたような状態だった。

 塾長である田端信太郎が「フォロワー1000人以下はゴミだ」と発破をかけたため、田端大学ではゴミを脱するべく、塾生それぞれが各々の戦略でフォロワー数1000人突破を目指していた。

 当時せっせと育てている感覚になっていたアカウントを見直すと、その酷い有様に絶句した。あまりに自分本位の情報を詰め込みすぎていて、何がなんだか分からない。これぞ独りよがり、意味不明なプロフィール文である。

 ぼく自身の強みは何だろう。改めて、他の人と差別化を図ることのできる武器を探した。

 そして、たどり着いた武器が「英語」であった。さらに解像度を高めると「英語」という手段によって手に入れた「世界中の人と対話するコミュニケーション能力」である。

 幼少期の九年間をニューヨーク州で過ごし、ぼくは日本に帰国してからも英語を磨き続けた。奨学金を勝ち取り、出かけた海外留学は合計六回。英検一級を始め、TOEFL/TOEIC満点、英語の教員免許も取得していた。複業で立ち上げた英語塾の話題が反響をいただけていたことも思い出した。

 これを活かさない手はない。もはや、活かす以外の手は残されていなかった。

 すると、ある日本人が「月へ行く」なんて言い出したのである。


第四章 ぼくは波に乗った

 "I choose to go to the moon, with artists."

 株式会社ZOZOの代表取締役であり、剛力彩芽さんと交際されるなど話題に事欠かない前澤友作社長。田端大学塾長、田端信太郎の上司にあたる人物でもある。

 そんな彼が「月へ行く」と発表した。その一言は日本のみならず、世界中に激震を与えたのである。

 ぼくは感じた。前澤さんの起こした振動はやがて大きな波を生む。その波に乗る準備をしよう――そう決めたぼくは、前澤さんが英語で行ったプレゼンテーションに目をつけた。

 そして、自分の強みを活かし、彼の英語力と国際人としての立ち振舞いについて考察を深めた記事を出した。

 すると、この記事は予想通り、波に乗った。

 拡散がさらなる拡散を呼び、なんと一日で一万人以上の人に読まれたのである。名もなき会社の新卒二年目が書いた記事が、である。

 一つ波を乗りこなすと、次々と大きな波に乗り移ることができる。勢いそのままに、milieu編集長である塩谷舞さんの記事を英訳させていただいた。

 波に乗ることで、自分一人ではたどり着けないような高さまで登ることができる。そこから見える景色は普段と異なり、何もかもがうまくいくように見える絶景だった。ここにずっといたい――そう思った。

 でも、波はやがて収まる。月旅行の話題が落ち着き始めたとき、一つのDMが届いた。

 「ヤマト、今度飲みたい!飲もう」

 田端大学二代目MVPの小野寺さん(@satoshi_gfa18)からだった。当時からフォロワー数が一万人に届きそうだった彼には、恐れ多くて話しかけられないでいる自分がいた。フォロワー数を戦闘力に置き換えた場合、十倍以上の差があったのである。

 そんな小野寺さんから、直々にお声がけいただけるなんて――このチャンス、この波を逃すわけにはいかない。すぐにアポを取り、連絡をいただいた三日後には一緒にランチをしていた。

 小野寺さんも、福本さんと同じで、ぼくよりも遙か先をひた走っているはずなのに親近感があった。優しくて話しやすい彼に、ぼくは気がつけば日本社会に抱いている想いを語っていた。

 日本人はもっと幸せに生きられる、という想い。世界との相対評価で自分たちの生活水準を測れば、あまりに恵まれている。それなのに、社会の同調圧力に押し潰されて自殺してしまう人が後を絶たない。

 日本人それぞれが「ぼく」や「わたし」と言った主語を使って生きられるように。他者への愛と自分自身を指す「I」の両方を持って、アイのある日本を実現したいこと。真剣な眼差しで聞いてくれる小野寺さんに甘えて、ついつい熱く語ってしまった。

 すると、小野寺さんから思いもよらない提案をいただいた。


第五章 ぼくは錯覚資産について考えた

 その提案は突然だった。

 「若手キャリア応援のオンラインコミュニティを立ち上げるのだけど、英語学習のアドバイザーをやってくれないか?」

 ぼくは二つ返事で引き受けた。尊敬する小野寺さんのお誘いを、断る理由なんてなかった。そして、ぼくは若手キャリア応援コミュニティ『Reinvent』のアドバイザーに就任したのである。

 すると、その反響は予想以上に大きかった。

 ぼくが『Reinvent』のアドバイザーを務めている旨をツイッターのプロフィールに記載した途端、今までよりもフォローされる確率が格段に上がった。さらには、英語学習アドバイザーとしての仕事が二件も立て続けに舞い込んできたのである。

 これまでと発信している内容は、たいして変わらないはずなのに。なぜ、このような現象が起きるのだろう――その答えを探るべく、ぼくは「勘違いさせる力」について勉強した。

 そして、衝撃を受けた。この世の中は「実力があるか」と同じくらい、もしくはそれ以上に「実力があると思われるか」が大切であることを学んだのである。

 まさに、ぼくがツイッターのプロフィールを変更したときに起きた現象は、本当に実力があるかどうかではなく「すごそう」と思われることの効果を如実に表していた。連続起業家の家入さんを始め、フォロワー数が一万人を超える方々とともに並べられ、人々は勘違いしたのだ。この『YAMATO』と名乗る人物も、おそらくすごい人なのだろうと。

 今までは、確かな実力と少しの運があれば評価されると信じていた。そのため、ただただ技を磨き、いつか日の目を浴びる瞬間を待ちわびていた。

 しかし、現実は違った。実力が「ありそう」と思われただけで、こうも社会の反応は変わるのだから。

 ぼくはバイリンガルで、英語ディベート世界大会の元日本一だから。アカペラで全国大会にも進出しているし、TEDx で司会進行も務めた経験がある。今はまだ気づいてくれていない世界も、いつかは振り向いてくれるだろう――なんて考えながら、うまくいかない日々に悶々としていたのは「勘違いさせる力」が足りていなかったからだ。

 自分自身が「すごいと思うか」ではない。相手に「すごいと思われるか」である。

 せっかく向けられた注目を勘違いで終わらせてはならない。勘違いだと思われてしまっては、むしろ悪印象が残ってしまう。予期せぬ形ではあれど、せっかく手に入れた錯覚資産を入り口に、どうやって実力を証明するか。本物のブランド人だと認知されるための方法を必死に考えた。

 そして、ぼくは一つの答えにたどり着いた。


第六章 ぼくは星座を描いた

 ぼくは、ぼく自身のことを「すごい」と思っていた。それは、自分と同じような存在に出会ったことがなかったからである。

 帰国子女のバイリンガルで、会社に勤める傍ら個人でも起業している複業家。ビジネスと同時並行で音楽活動にも明け暮れ、挙句の果てにはM-1グランプリにも挑戦している。そんな二十代に、ぼくは出会ったことがなかった。構成要素のどれか一つが他人と重なることはあっても、すべてが被るなんてことはあり得なかったのである。

 ただ、果たして、周りの人はそれを知っているのだろうか。むしろ、いろいろな情報が小出しにされて「よく分からない」ぼやけた人物像になってはいないだろうか。

 よく分からない人は、ブランド人とは程遠い。

 星空を見上げて、美しい星座を見つけるには案内役がいるとありがたい。星座に詳しい誰かが横にいてくれると、燦然と輝く星々がさらに楽しめる。逆に、そんな存在がいなければ、ただただ光の粒が散らかっているようにも見えかねない。

 「星座を描け」

 ぼくは塾長の言葉を思い出し、点在していた多種多様な活動を線で結んだ。そして『YAMATO』という個人を面で捉えてもらえるように、命を燃やして、自分自身の原体験の物語を書き上げたのである。

 なぜ、ぼくが一見繋がりがないように見える活動に奔走するのか。そのきっかけとなる経験の数々を、赤裸々に綴った。

 どうして、一つの活動に集中しないのか。

 その理由は、ぼく自身が先生として、ありとあらゆる生徒の相談に乗り、少しでも明るい未来へ導けるよう武器を増やしたいからであった。

 大学に進学したい生徒もいれば、高校を卒業するタイミングで起業したい人もいるかもしれない。音楽の道へ進みたい人もいれば、ホストクラブで働く学生も出てくるかも。海外を旅したい、逆に日本の地方に移住したい。遠距離恋愛に悩んでいるかもしれない、失恋で心が傷ついているかもしれない。

 どのような生徒が目の前に現れたとしても、精一杯、役に立てるような先生になりたいから。誰しもの心に火を灯せる「こころ着火マン」になりたくて――ぼくは、あえて分野を飛び越えて、何事にも挑戦し続けている。

 いじめられていた中学時代、うつ状態になったフランス留学、教師という夢を失った教育実習。発信することをためらっていた、黒歴史と呼ばれるような過去。ぼくは原体験の物語で、文字通り「すべてを」さらけ出したのである。

 自分自身の「なぜ」を発信し始めた途端、世界の反応が再び大きく変わった。

 フォロワー数が一ヶ月で倍増したことはもちろん、何よりも嬉しかったのは毎日のようにDMが届くようになった。ぼくの活動に共感してくれる同志から、熱い言葉が送られ続けているのである。エールを送ってくれる人、共創の提案を持ちかけてくれる人、生き方を見直すきっかけとしてくれた人。星座を描くことの効果は絶大だった。

 行動の背景にある理由が伝わると、これほどまでに世界は切り開かれるのかと驚いた。そして改めて、人には「言わないと伝わらない」ことも痛感した。

 言ったつもりでは、足りない。一度、言っただけでは伝わることのほうが珍しい。何度も何度も、圧倒的な熱量で常軌を逸して発信し続けること。継続することでしか自分も、世界も、変わらないことを学んだ。

 一つの真理が腹落ちしたぼくは、もう怖くなくなった。そして、吹っ切れた。片足に引っかかっていたパンツも完全に脱ぎ捨て、裸一貫、全力で突っ走る決意が固まった。


第七章 ぼくはパンツを脱ぎきった

 すべての経験は、成功も失敗も、調理の仕方次第で美味しくできる。その感覚が腑に落ちた。

 時代の波を読み、乗りこなす。そして、錯覚資産を巧みに運用して、自分のブランドイメージをコントロールする。それを実行するチャンスは狙い通り、すぐに訪れた。

 2018年12月05日(水)#田端イケハヤ「脱、社畜。」と題された対談企画が、都内某所で開催された。そこで、ぼくは所属している田端大学の活動報告を、同じく塾生である相方と漫才形式で行う予定だった。

 しかし、急遽相方が「脱社畜」を謳うイベントに、仕事都合で来られなくなってしまったのだ。

 突然、一人でプレゼンをする羽目になったぼく。今までの自分ならば、パニックになっていただろう。なんなら、如何にも真実らしい口実を探して、発表の舞台から逃げ出しただろう。

 でも、パンツを脱ぎきったぼくは違った。このアクシデントはむしろ美味しい。なぜなら、プレゼンが成功すれば自分一人の手柄になり、うまくいかなったときには失敗談として笑いのネタになる。

 パンツを脱ぎきると、もはや失うものは何もなかった。

 一人で迎えた活動報告、与えられた時間は十分。数十名いる観客の目当ては、あくまでも田端信太郎とイケハヤ氏の対談。ぼくのプレゼンが前座であることは分かっていた。しかし、期待されていないからこそ、史上最高の前座にしてやると心に誓っていたのである。そして、発表が始まった。

 まずは、第一印象。ここで、ぼくは錯覚資産を使う。

 十秒ほどで挨拶を済ませたぼくは、即座に以下のスライドを見せたのである。

 田端大学で相方を見つけ、M-1グランプリに挑戦したときの証拠写真だ。

 M-1グランプリに挑戦したからと言って、ぼくが「本当に」面白い人とは限らない。現に、ぼくら『さらリーマン』は一回戦で敗退した弱小コンビだ。

 しかし、人々は錯覚する。なぜなら、M-1グランプリに出場している人は面白いだろう、という認知が存在しているからだ。一般大衆の目に触れる決勝戦は、本当に面白い人たちばかりなので無理もない。

 「M-1グランプリに挑戦したことがある」という体験を錯覚資産として利用することで、田端大学の活動報告をする「よく分からない若造」が「耳を傾ける価値がある面白い(かもしれない)人」に変わったのである。

 おかげで、プレゼンテーションは大成功。普段は愛の鞭を振りかざす辛口の塾長からも、お褒めの言葉をいただけた。

 心の底から、嬉しかった。

 しかし、ここで終わってはいけないと思った。一つの成功体験が起こした波に乗れば、次々と波を乗り移り、さらに高い場所へ行けることを学んでいたから。

 ぼくは次の一手を打った。

 ぼくは高評価をいただけた発表の裏にあった戦略、プレゼン術をブログにまとめた。

 この記事は、一夜で千人以上の方に読んでいただけた。錯覚資産でチャンスを呼び込み、成功を掴んだら、次々と波を乗りこなし、高みを目指す。その感覚がようやく分かってきた。

 思えば、昨年の六月下旬に、藁にもすがる思いで入学した田端大学。

 パンツを脱げていなかった自分に刺激をくれた塾長を始め、学び舎をともにする塾生のみんな。波乗りの極意を教えてくれた福本さん。ぼくに錯覚資産を与え、存在証明するチャンスをくれた小野寺さん。脱社畜を謳うイベントに会社都合で来られなくなる、最高の掴みをくれた相方の國友さん。

 数えきれない大切な人との出逢いが、ぼくのパンツを脱がせてくれた。 

 名もない会社の新卒二年目が、元祖ブランド人に、初めて名前で呼んでもらえた瞬間である。


第八章 ぼくは「ブランド人になる」と言い切った

 「2019年、最初の田端大学MVPを取る」

 ぼくは昨年末に、そう宣言した。予告ホームランの如く、実現できなかったときには赤っ恥をかくような痛い宣言である。

 しかし、今までに有言実行した方はいないからこそ、達成できた際にはまた一つ「YAMATO」というブランドを築くチャンスなのである。失敗したときには、それをネタにして次の挑戦に臨めばいい。

 パンツを脱ぎきれたからこそ、宣言できた。

 もし、名もない会社の新卒二年目が田端信太郎のオンラインサロンに入ったら。

 悶々としている暇なんてない。意味のないプライドは捨てて、分からないことは人に聞いてみる。先人の知恵を借りる。そして、自分よりも影響力のある強者が生み出す波に乗って、高みへ引き上げてもらう。

 そして、次々と大波を乗りこなし、実績を積み重ねる。着実に自身の牙を磨きながら、周囲に「すごそう」と一目置かれるような自分の魅せ方を身につける。すると、わらしべ長者のような循環に入ることができる。

 最後に、星座を描く。ぼくが今日も生きる理由、自分自身の根幹にある「なぜ」の数々を、原体験の物語を通じて語る。文字通り、すべてをさらけ出すと、心はすっと楽になれた。なぜなら、世界は相も変わらず回り続けたから。

 ぼくが人生の汚点のように恥じていた過去を開示しても、それをあざ笑うような人は現れなかった。むしろ、苦汁をなめた体験に共感してくれる同志たちと出逢えた。

 パンツを脱ぐ前は、脱ぐことをすごくためらっていた。怖かった。

 だけども、それはぼくが、ぼく自身にかけていた呪いだったのかもしれない。すべての経験は資産になるから――失敗や恥ずかしい過去なんてものは存在しない。そのことを、田端大学に入学して身をもって学んだのである。

 ぼくに、恐れるものは何もない。なぜなら、ぼくのパンツはもう脱げているから。

 そう、ぼくは「ブランド人」になるのだから。


エピローグ

 「田端大学・六代目MVPは、大和さんです。」

 塾長はたしかに、そう言った。そして、ぼくはブランド人として、有言実行を果たしたのである。

 本連載も、毎日のツイートも、定例会での発表も、全ては自分との約束を守るために配置された戦略的な星々でした。結果的に、点在する星たちが線で結ばれることで「六代目MVP」という星座を描けたわけです。

 得られたものは「六代目MVP」という肩書きだけでは、ありませんでした。

 無謀な挑戦を掲げ、がむしゃらに突っ走る過程で、次第に応援してくれる仲間が増えていきました。それは会社の同僚やソーシャルメディアで繋がっている同志のみならず、ライバルでもある田端大学の塾生たちまでもが心強く支えてくれました。

 切磋琢磨する中で得られた仲間は、一見分かりやすい「六代目MVP」という称号以上に、自分にとってかけがえのない資産です。

 そして、入学して以来、憧れては追いかけ続けていた福本さんや小野寺さんたちと同じ食卓を囲めたときも心が震えました。

 少しずつ、自分自身のステージが上がっている感覚を持てたこと。成長を実感できる場所、そのような社外のコミュニティに所属できたことも大切な財産です。

 お食事のみならず、田端大学の年間MVPを決める際には、歴代MVPの方々と同じ土俵で戦うことも出来ました。

 トーナメント形式で行われた大会を見事に勝ち抜き、初代年間MVPに輝いたのは、ずっと追いかけ続けている福本さんでした。ぼくは初戦で敗退してしまったものの、その相手が小野寺さんであったことは不思議なご縁だと感じています。

 田端大学で、少数精鋭の猛者たちと切磋琢磨した日々。それは、ぼくがブランド人になったとき、自分自身の原点として振り返る時間になると断言できます。

 もし名もない会社の新卒二年目が田端信太郎のオンラインサロンに入ったら。

 今日もぼくは、パンツを脱ぐ。


あとがき

 本作品を最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

 ありがたいことに、多くの方から「(ぼくが)定例会で行ったプレゼンテーションの映像が見たい」との声をいただきました。

 しかし、あいにく田端大学は有料のオンラインサロンであり、そのサロン内のコンテンツを外に出すことは難しいです。

 塾生の皆さんは招待制のフェイスブックグループにて、過去の定例会の映像にアクセスできます。ご興味のある方は是非とも、田端大学に入学する形で、共有されている動画をご覧くださいませ。

 ともに切磋琢磨できる日を、心待ちにしております。


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サポートいただき、誠にありがとうございます! こころ着火マンとして、これからも人々の心に火を灯せるよう邁進します。 『いつ死んでも後悔のない生き方を』 「普通」という呪縛が支配する母国・日本で奮闘する、七転び八起きの帰国子女の物語。 今後とも何卒よろしくお願いします!!