「そうだ、入院しよう。」一日限りの疑似体験
そうだ、入院しよう。
仕事の山場を越えて、少し余裕が生まれたある休日のこと。
爽やかな太陽の光と鳴り止まぬスヌーズ機能に起こされた私は、正午を指す時計が目に入り、浅いため息をつく。
昼まで眠れた贅沢な時間。
その大切な睡眠が、中途半端なプライドでかけた目覚ましのアラームに邪魔されて、少しばかりへこむ。
枕元にあるスマホを手に取り、おもむろに通知を確認する。
ダラダラとツイッターやインスタグラムを開いては、最終的にユーチューブにたどり着き、お馴染みの動画を惰性で眺める。
ベッドから、動きたくない。
プツンと電源が落ちたかのように、やる気が全く出なくなってしまった。
張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。
脳みそが一切の能動的な活動を避け、絶え間なく流れてくる『あなたにおすすめ』という刺激をただただ受け身に丸呑みする。
ベッドから、動きたくない。
もはや「動けない」と表現した方が、あの日の私に対しては正確だったのかもしれない。
そうだ、入院しよう。
唯一、私の脳みそが許した主体的な決断は、病院患者になりきること。
その日はベッドから一切動くことなく、手持ちのスマホを相棒に、丸一日を過ごすことにした。
お腹が減っても我慢する、トイレの回数も二回まで、昼寝は認める。
自ら規則を設定し、自分自身が院長兼患者の入院生活が始まった。
スマートフォン、和訳して「賢い電話」と形容するにはもはや規格外の機能を備えた文明の利器を片手に、無限のコンテンツを漁る。
この小さな画面でテレビはもちろん、映画からドラマ、漫画や小説まで読めてしまう。
一日を乗り切るには十分過ぎるほど、多種多様な刺激にアクセスできる。
これぞ、21世紀を生きる人類にのみ許された、最高の休日の過ごし方だと確信した。
しかし、人間とは不思議なもので、次第に飽きが訪れる。
あれほど面白がっていたはずの番組たちが、徐々にちっぽけに思えてくる。
カーテンから差し込む光が、やたらと眩しい。
せっかく晴れた日になぜ、私は一人、ベッドに引きこもっているのだろう。
そうだ、入院しよう。
数時間前に下した決断を、早くも後悔している自分がいた。
お腹は減った、トイレも行きたい、昼寝なんて必要ないほど眠ってしまった。
退院したい。
自らを縛ったルールを回顧し、過去の己にドロップキックをかましたい気持ちを噛み締めつつ、人間とは常に変化し続ける生き物であることを痛感した。
私は進化した、と自身に言い聞かせた。
アウストラロピテクスから始まり、農耕を覚え、狩猟生活を通じて社会を形成した私たち。
数え切れぬ愛の連鎖で今があり、その道中には価値観の違いから数々の争いもあった。
それらを懸命に乗り越えながら紡いできた歴史は、紛れもなく、人類の果てしない進化の連続を証明している。
病院患者になりきったからこそ、脳みそが能動的な行動を求め始めた。
入院したから、退院できる。
病院の院長でもある私は、患者の退院を喜ぶ責務がある。
「おめでとう」と床離れを祝うべき立場にあるのだ。
そうだ、入院しよう。
馬鹿げた発想にさよならバイバイ。
私はベッドから出て、一目散にトイレへ駆け込んだ。
そして、手を洗って、お腹いっぱい白米を食べた。
満腹なまま、昼寝する多幸感を味わったことはここだけの秘密。
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