RICゼミ第8回を受けてみた

2020年11月1日日曜日。肌寒さはあるけれど、秋日和。

今日のRICゼミは、8回目、「生と死のワーク」。

どんなことをするのだろうと参加前から少しワクワクしていた。ゼミが終わると、そのワクワクは、とーっても大きくなっていた。帰り道、スキップしてしまいたくなるような気持ち。(ちょっとだけ、スキップしてみたりもした)

どんなことをしたか。「死」と「生」の体験。もちろん疑似体験。

まずは「死」に向かって、いま自分が大切にしているものをひとつひとつ手放していく。そして、しずかに「死」を迎える。しばらくすると、母の胎内で新しいいのちとなり、「生」へ向かっていく。新しい「生」は、とてもあたたかく、穏やかな雰囲気に包まれている。

「死」に向かうとき、自分には「手放せない!」と強く思うものがひとつもなかった。手放すさみしさはほんの少し感じるのだけれど、執着する大切なものがなかった。「死」を迎えたとき、(わー死んだんだー、死ねたー)と喜びさえ感じた。真っ暗なんだけれど、なんだかやわらかい嬉しさの中にいたので、「生」へ向かうのが怖かったし、少し気持ちが抵抗していた。(まだまだお腹の中にいたいよ、外の世界に出たくないよ)と。

いざ、「生」を迎えると、(あーあたらしく生まれたんだ、あたらしい自分なんだなあ。安心していいんだなあ)と、今度は明るい光の色に包まれていた。

ワークが終了した後、静かに興奮していた。とてもふしぎな気分だった。「わたし、死ねたんだ」という気持ちは自分をとても開放してくれる感じがした。いろいろなものやひとや気持ちを手放せたことも影響していたようにも思う。また「生をうけた」けれど、いったん死ねた自分は、前の自分とはちがうような感じもしていた。

帰り道、そう、心の中でスキップして帰っている最中、小さな女の子がいた。その子は、電車に向かって手を一生懸命振っていた。そして、突然、大きな声で「いってらっしゃーい、がんばってねー」と叫んでいた。その瞬間、目が合っていた。なんだかわたしに言ってもらったようで、思わず、「ありがとうね」と言ってしまった。

生と死のワークは、なにか、わたしの行動に、後ろ盾になってくれるような気がする。わからないけれど、それは、厳しすぎず、甘すぎず、ちょうどいい加減で、力を、動きをくれる感じ。うまく言葉にできないけれど、いまはそう思う。

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