山下ゴム男が訪れた場所 -「金鶏山は登る山ではなくて見る山です」と教えられた件-

20220703
素晴らしいと評価するコメントより、見処があまりない、もう頂上? みたいなコメントが多く記されている金鶏山。
しかし国語教科書の『奥の細道』の記述、「秀衡が跡は田野に成て金鶏山のみ形を残す」という箇所を読み、金鶏山ってどんなとこだろう? と日本全国の少なからぬ中学生が興味をもったに違いない山なのだ。私も強い関心をもった。

今日は金鶏山に行く予定で平泉に到着。
ところが駅の観光案内所で金鶏山について尋ねたとき予想もしていなかった答えが返ってきた。
「金鶏山は登れませんよ。個人の山なので。金鶏山は登る山ではなくて見る山です」
「登山道があるって聞いたんですけど」
「あるんですけどね、登れませんよ。個人の山ですから」
だいたいわかった。
所有者の厚意で登れるということなのだ。
観光案内所の職員は最後に付け加えた。
「麓に義経妻子の墓があります。そこまでは行けます」
麓には千手堂があり義経妻子の墓があった。

泰衡の襲撃を受けた義経は妻子を殺した後自害したと伝えられている。
源義経公妻子之墓の先には登り道があってそれは特に進む者を拒んでいる様子ではなかった。

高さが100mに満たない山なので山頂はすぐだった。

お賽銭箱には僕にしては金額多めの500円硬貨を入れた。
厚意への感謝のつもりだ。
高館義経堂の拝観料300円より多いのでいいだろうと考えた。
🐱
金鶏山が見る山だという指摘は、実は正しい。
平泉は金鶏山を基準として寺院の配置が定まっている場合が少なくない。
たとえば無量光院は、西方向となる本堂の正面-背面方向の先に金鶏山が位置するように建てられている。
つまりこんな↓ふうにだ。

したがって春と秋の年二回、本堂正面から夕日が金鶏山の山頂に沈む光景を見ることができた。すなわち浄土世界の比喩である。

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