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坐禅って何?「坐禅(座禅)を体験する」シリーズ その2

横浜市鶴見の總持寺という曹洞宗の本山で坐禅を体験してきました。そもそも坐禅って何でしょうか?

高名な仏教学者の渡辺照宏先生は、彼の著書『日本の仏教』(岩波新書刊)の中で、坐禅の起源となるインドのヨーガ(yoga)について、その実践法を次のように記しています。

— 落ち着いた姿勢で、呼吸を統制し、精神を統一して、高度の認識を完成することを目ざすものであって、瞑想であり、静観であり、神秘直感である。これによって精神力を高めると同時に、肉体力をも増し、奇蹟をも行なうことができるものとさえ信ぜられている。—

いやあ、市井の一市民であり、凡人たる私には、「落ち着いた姿勢で、呼吸を統制し」以降は何のことかさっぱりわかりませんが、インド仏教の修行者達は、“座る”ことで、「高度の認識を完成」、つまり真理に到達し、宗教的な理想を完成させることを目ざしていたようです。

実は、お釈迦様も死に直面するような苦行の後、菩提樹の下で坐禅して仏陀(真理に目覚めた人)となりました。そのとき彼が何を想い何を考えたのかはわかりませんが、座って瞑想している間に何らかの体験するするなり、自覚をするなりして〈真理に目覚めた〉ことは確かなようです

ただ、こういう話は知識として知っておいて損はないですが、プチ修行者たる我々が実践しようなどとは夢にも思わないほうがいいかもしれません。家庭も財産も仕事も全てなげうってでも真理を追究したい!というのであれば別ですが。

●「一度経験してみたい」程度の軽いノリ

では、この現代において、お寺に坐禅をしに行く人々は何を求めているのでしょうか。例えば、私が参加した曹洞宗大本山總持寺の参禅会(一般の人も坐禅をしようとお寺を開放している会)では、毎週日曜日、数十名の人々が自らの意志で坐りにきます。

初参加の日、私以外に初心者は3名いました。隣にいた東京都大田区から来た米屋のご主人は「物事にこだわり過ぎる性格をなんとかしたいので、坐禅をすることで自己を見つめ直す」といった主旨の抱負を述べておられました。他の2名の方々も、理由こそ違えど動機の本質は「自分を見つめたい」といったものでした。

〈座ることで自分を見つめる〉確かに壁に向かって座るその姿を端から見れば、坐禅に抱くイメージとしてそれは大いに理解できますし、経験を重ねるうちにそれもで可能なのかもしれません。ただ、私は、はじめからそこまで肩に力を入れなくてもいいのでは、と思うのです。

私が坐禅をしにいった動機は、どんなものか「一度経験してみたい」程度の軽いノリでした。こんな言い方をすると坐禅にまじめに取り組んでいる人に叱られそうですが、曹洞宗の開祖「道元」は、「さとりも意義も求めずただひたすら無条件に坐れ」と説いているので、こういった動機でもまあ怒られることはないかなと思っています。

丘を越えた瞬間に目の前にパアッと青く輝く海が開けたような気分

で、坐禅初体験を終えた時「時間が許せば、また参加したい」と思いました。つまり坐禅って結構良いものだったのです。じゃあ、何がそう思わせたのでしょうか。それを一言で表すと“爽快感&充実感”です。始めての坐禅を終えて帰路につくときの軽やかな気分は、何にも例えようがありませんでした。強いて言うならば、18歳の時、生まれて初めてのバイト(早朝から夜まで1ヶ月間休みなしのキツイものだった)を終え、給料を握りしめて帰路についた時のあの感じを思い出します。

もちろん、いくらなんでも、2度目3度目の坐禅帰路で、毎回“バイト帰路的”な気持ちでいたわけではありませんが、爽快感と充実感は毎回のように味わうことができました。お寺にいる間は、緩やかで心地よい緊張感を保ちつつ非日常的な時間と空間の中に身を投じているわけです。

そして、坐禅をやり終えてそこから解き放たれた時、丘を越えた瞬間に目の前にパアッと青く輝く海が開けたような気分、とでも言いましょうか、とにかくそんな気持ちになれるのです。そして、いつもの日常へと帰っていくわけですが、もう一度ここへ戻ってきたい、と思いました。

坐禅そのものに何かを求めるのではなく、その後の心地よさを味わうために参加しているようなものですが、まあ、それはそれでいいじゃあないですか。これを続けていくうちに真理に目覚めないとも限りません。

次回は、実況中継風に坐禅の体験記に突入します。お楽しみに。

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