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記録の記憶

世界は目の前で流れていく。
これは記憶に残らない、そう思ったことだけ覚えている。
それが私の日常だった。

板が一枚、私の前に立ちはだかる。
質の悪い液晶のようなその板を通して世界を見て、あるかも分からないスピーカーからボソボソと鳴っているような音を聞く。
常に意識がはっきりせず、常に脳に霧がかかっているような、自分が呼吸をしているのかも分からないほど、私の意識はそこに無い。
どうせ忘れてしまう今日を諦めたのはどれほど前のことなんだろう。
必死につかもうとしていた過去があったどうかかも、もう既に覚えていない。

薄れた記憶は、日焼けした写真の細かく千切られた一欠片のようで、そんな小さなピースひとつでは記憶のパズルは完成しない。
私はパズルを完成させる気は無い、この諦めのような感覚が過去に努力したのかもしれない私の姿を想像させる。
たまに、気まぐれに継ぎ接ぎの写真を、それっぽく繋ぎ合わせて、自分じゃない自分を捏造する。
貼り付けたその写真の欠片が、自分の経験なのか、物語でも読んで想像した何かなのか、人の経験なのか、日頃張り付いているインターネットから拾った何かなのか、少なくとも自分がこの目この耳で見聞きした何かなんだろうということしか確かなことは無く、この捏造が私の人生の捏造なのか、他人の人生の捏造なのか、何も分からない。
知る気も、理解する気もない。

私の小説に値段を付けてくれれば買うと言った友人がいる。一人二人じゃないが、その気がない私は曖昧に返事をした。
怖いでは無いか、こんな、ただの捏造を小説と呼ばれることも、捏造ですらない正しいかも分からない記憶の記録を買うというのは。
値段が付けば責任が生じる。
自分でも分からない記憶たちに、好き勝手した捏造に責任を持たなければならなくなる。
私は、それが怖い。

値段というのは保証であり責任である。
質を求められる、責任を求められる。
金額というはっきりと分かりやすく価値がつく。
そこにあることを保証しなくてはならなくなる。
白昼夢や幻に、写真のツギハギ遊びに規格が定められ監視がつき評価がつく。
評価されるのが、怖い。
それが自分でも掴み方を知らない曖昧なものなら尚更。
責任のとり方など知らないのに責任など持てない。
評価されることを避け続けた人生に、自ら評価を持ち込むことなど出来ない。
私はいつも、そういう恐怖から逃げ続けていて、今後も逃げ続けるつもりであるから、やはりこの捏造に値段がつくことは無い。

私には、思い出があまり無い。
こんなことがあったよねと言われてもそうなんだと他人事でしかない。
覚えてない思い出は知らない人の話のようで、それに寂しさや罪悪感を感じる時期はもうとっくに過ぎてしまったんだと思う。
前にも言ったじゃんと言われれば覚えて欲しかったんだなと申し訳なく思うけれど、申し訳なさより悲しさが湧いてきて、きっと必死に戦ったあとなのだと覚えてる範囲から推測した。

腕はメモでタトゥーのようだったとか、何枚も出てくる同じ内容のメモ紙だとか、空のファイルに書かれた分類の見出しに努力の後を見た。
全部、ほとんど覚えていないのだけれど。

私が覚えているのは、忘れる悲しさと寂しさと、覚えてないこと、忘れていることに気がついた時の恐怖だけだ。
写真に残らない音なんてこの脳みそのどこにも残っていないのに、人は会話から相手のことをより深く知るから、私だけ置いてかれるように感じる。

二度目三度目も初めてのような反応に、きっと相手も悲しくなり寂しくなるのかもしれない。
私の中にある写真の欠片たちと、気まぐれにしたツギハギ遊びをした末の写真と、それから作り出された嘘か本当か自分でも分からない記憶と、あるかもあったかも分からない過去の話と、どれほどフィクションを含ませたか分からない文章が、私にとって貴重な過去で真実だった。

感情だけを覚えていて、他の全ては自分でもどれほど嘘が混ざっているのか分からない。
感情だって、そう感じたかった、そう演じた、そんなものなのかもしれないから信用も出来なかった。

悲しさから書いた文章、喜びから書いた文章、怒りから書いた文章、寂しさから書いた文章。
全部、どれほど本当だったかなんて知らない。
その時の気分で、捏造具合など変わるものだ。
私は私を信用していない。
私は私の気まぐれさを知っていて、残っていて欲しい記憶は都合良いように消え、ただ何かしらの形で現在の断片を保存しておこうとしてきたことは事実だと思う。
写真を撮り、文章を残し、少しでも自分を知りたいと、少しでも自分を、周りを覚えていたいとあちこちに残す。
部屋が散らかり、データが散らかる。
探すのも大変なほど整頓されてないのが記憶が残らないせいにするとしたら、それも仕方ないのだと思う。
整頓してしまうより、そのままにしていた方が過去を知ることができる気がして、それは気分の問題で、過去の行動すら保存した気になって安心している。

周りが小説と呼んだ私の文章は、私にとって妄想や願望の混じる誰かの人生の捏造と、写真のツギハギ遊びと、気まぐれのお絵描きもしくは記録だった。

私にとって、創作と言いながら捏造された人生が真実で、自分を記した物語は一つだけもしくはどれも繋がりがあるという一般的な他人が道標だった。
長編でも、連続短編でも、一つにまとめられる物語しか持たない誰かが羨ましくて、でも既に沢山捏造してきた私ではもう手にできるものでもなくて、諦めるみたいに早く物語を持たない存在になりたいと願ってみる。

主人公になんてならなければ物語なんて生まれないのにと、透明で描かれずでも確かにいるはずのモブ以下に、地味で目立たず、一つの物語も持っていなければなんて想像して、結局私は私を複製して捏造して複製して書き換える。
小説なんかじゃない、そんなの向いてないと分かっている。
小説だと呼ばれた以上、小説のラベルを貼って堂々と存在しない人間の存在しない人生だと晒す。
その断片にあるはずの私を、捏造されてない地続きの私を探そうだとかは思わないけれど、もし探すのなら捏造も含めたその全てが私なのだと抱え込むだけだろう。

諦めだらけの人生だったし逃げてばかりの人生だったと、何故かそれだけは確信を持って言える。
諦めと逃げが捏造を助けているのも、きっとそうなのだろうと感じている。

私はこれからも記録し続け私か誰かの人生を捏造し続ける。
それしか持っていないし、私にとって息継ぎであり心の安らぎであるから。
捏造やらなんやらとこねくり回した記録たちを記憶とするしかない自分自身へ罪悪感も何も感じないことを良しとしていいのか、自分自身へのことなので正直分からない。

けれどやはり、これらを小説と呼び楽しむ人がいたなら、悪いことでは無いのだろうと考える。

さて、これまでの文章は一体どれほどまでが真実で事実で、どれほどの虚構が混ざりこんでいただろうか

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