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#創作にドラマあり(9)

第九回
※大正14年7月12日新潮社発行「夜の光」志賀直哉著抜粋

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「好人物の夫婦」より

 【深い秋の静かな晩だった。沼の上を雁が啼いて通る。細君は食臺の上の洋燈を端の方に惹き寄せて其下で針仕事をして居る。良人は其傍に長々と仰向けに寝ころんでぼんやりと天井を眺めて居た。二人は永い間黙って居た。
「もう何時?」と細君が下を向いたまゝ云った。時計は細君の頭の上の柱に懸かってゐる。
「十二時十五分前だ」
「お寝みに致しませうか」細君は矢張り下を向いた儘云った。
「もう少しして」と良人が答へた。
 二人は又少時黙った。
  細君は良人が餘りに静かなので漸く顔を挙げた。而して縫った絲をこきながら
「一體何して居らっしゃるの? そんな大きな目をして……」と云った。
「考へて居るんだ」
「お考へ事なの?」
  又二人は黙った。細君は仕事が或る切りまで来ると、絲を断り、針を針差しに差して仕事を片付け始めた。
「オイ俺は旅行するょ」
「何いって居らっしゃるの? 考へ事だなんて今迄そんな事を考へて居らしたの」
「左うさ」
「幾日位行って居らっしゃるの?」  
「半月と一ト月の間だ」
「そんなに永く?」
「うん。上方から九州、それから朝鮮の金剛山あたり迄行くかも知れない」
「そんなに永いのいや」
「いやだって仕方がない」
「旅行おしんなってもいゝんだけど、……いやな事をおしんなっちゃあいやよ」
「そりゃあ請合はない」
「そんならいや。旅行だけならいゝんですけど、自家で淋しい気をしながらお待ちして居るのに貴方が何所かで今頃そんな……」かう云ひかけて細君は急に「もう、いやいや」と烈しく其言葉をはふり出して了った。
「馬鹿」良人は意地悪な眼つきをして細君を見た。細君も少しうらめしそうな眼つきでそれを見返した。……】
 
 これが、文章の神様といわれる所以である。
 解説してみましょう。

…………………………………
●場景描写、時間、その他、改めて説明は無いが夫婦の会話のなかに全てのものをそっと含ませ、読んでもらうための諸条件を満たしている。

 さて、話を元に戻そう。物語の構成系列がしっかり出来ていれば、第一シーン、第二シーンと目を遷すとき「あぁ そうか……、成程…」と無意識のうちに自分流のイメージを膨らませているのである。

 そして、「次はどうなるんだろう?」と頁をめくり行を追う。ここまで行けばもうしめたもの。物語の森に呼び込み成功ということになる。著者は、紙芝居よろしく、「文章描画法」の手法でシーン展開をやればよい。ただし、ここに重要なポイントがある。これを外すと効果半減だ。それは、自伝であるがために真実を吐き出さねばならないという点だ。
「俺は、こんな凄い体験をした。けどょー、世間体もあるしなぁ、真っ正直には書けるもんか」という人が多い。

 せっかく本にするんだから立派にしたい。ちょっとぐらい恰好良いようにデフォルメ(改変)してもいいだろう。という気持ちになってしまいがちだ。これが、自伝をつくる上での最大の関所なのだ。弁慶じゃないが、勧進帳を読み違えるとせっかくの素晴らしい計画も水の泡になりかねない。

●フィクションを専門とするプロの作家なら、ここのところはうまく創作し、読者や観客の心をつかむだろう。しかし、素人はそうはいかない。いくら恰好よくみせようとしてもボロがでる。中身に真実がないからだ。目立つのは自慢話。

●これまでの経験では、およそ七割がこの傾向ありだ。これでは読み手はウンザリして、遂には本を投げ出してしまう。十分心得なければならない。

 わたしは、かつて所属していた日本自費出版ネットワークが行う「自費出版文化賞」の小説部門選考委員を務めたことがある。三十編余審査したが、やはりこの傾向がみられた。

 そんななか、ただ一編、素晴らしい作品があった。或有名な劇団リーダーとの青春時代の出会いを綴ったもので、詩的で素直で、文章に気取ったところもなく、作者の心の奥から湧き出る感情をそのまま文字に託した如く感じられた。ちなみにこの作者はご高齢のご婦人だった。にもかかわらず、若人のような瑞々しさをも感じた。それで、審査通過ということにした。結果は残念ながら賞には届かなかったが、見事最終選考まで残った。
…………………………
●このように、自伝を執筆する場合、気負い、エエ恰好、素人がよくやってしまう難しい漢字を使った難解な文章表現は百パーセント避けるべきだ。度々自著を持ち出して申し訳ないが、「ど根性」作品は、小学校高学年で充分理解できるよう漢字制限し、児童文学として書き上げた。これが成功を見ることになった。


※参考図書
ど根性: (実話物語) [Kindle版]
よしい ふみと
山の辺書房

ど根性表紙ライブ用

★文章を絵画的に表現した結果何が起こったか!?
 
●「文章描画法」は読み易い。苦も無く読める。だが、果たして主人公の心の奥まで表現出来ているのか。このような疑問は物書きには陰の如くついて回る。いくら気力を込めて書いたつもりでも、自著のことは闇の世界とな。物書きの孤独もこの点に証明される。
 本当に中身はどうなのか? を出版後各界から頂戴した感想文の一部を次に掲げて考察する。

…………………………書評・感想文抜粋(出所は編集室預かり)……………………

【団体役員】
 児童図書「ど根性」発表記事を新聞で見て直ぐ買って知人にも送り紹介しています。
 極貧のどん底の生活から耐え忍び苦闘して立ち上がった根性は【金次郎、おしん】そっくりで、涙と力強さをもって読ませていただきました。
 万人必読の書。心から頭がさがりました。

【一般読者】
 午後から仕事を休み、一気に読み終えました。夜はすでに一時過ぎになり、床のなかに入り眠らねばと焦りはしたものの、深夜の河原に、言語を絶する過酷な労働に骨身を削るひとりの小学六年生が脳裏をかけ巡り、とうとう朝まで一睡もできなかった。
 あまりにも凄まじい苦難の実話でした。
 激動の昭和に、しかも我が郷土に、明治、大正期に見る立志伝中の人物が実在したとは……。この本こそ一般人はもとより青少年必読の書といわずして何といえよう。

【医学博士】
 地を這うような、どん底の人生から立上がる凄絶さ。誠に目を見張るような人生だと思います。
 一気に読みおえた私は、目を閉じた儘、暫く放心状態でした。やがて、万感交々去来するものがありました。
 今更のように、中岸さんの人間の深みを感じました。誰にでも真似る事が出来るものではありませんが、せめて心の糧にしたいものだと思います。

【新聞社編集長】 
 想像を絶するような苦労を淡々と乗り越えてきた中岸さんの鋼鐵のような強い意志と精神力に感動をおぼえた。
 母に心配させたくない、悲しませたくないと、がむしゃらに頑張り抜く中岸少年の姿が今も瞼に焼き付いて離れようとしない。
 少年少女諸君がこの本に接するとき、今、自分たちが忘れかけている〝何か〟を思い出し、同時に、さらに大きな夢と希望を抱いてくれるであろうことを確信する。

【大学講師】
 児童図書「ど根性」を読みまして只々感動するばかりです。まだ幼い十一才のときより真夜中のじゃり持ち土方仕事にでて、両親を思い、家庭を思い、また、自分に打ち勝つ精神力、たくましさ、その精神の粘り強さには驚嘆するばかりです。

 とくに、百頁の、母親が我が子に詫びて見送るあの情景が涙させるものでした。
 大阪の釜ヶ崎で立ちん坊で働き、ドヤ街の生活をしながらよく頑張りましたことは[ど根性精神]のひと言につきるものと思います。
 主人公の社会での生活された場面も、人間性の切磋琢磨が相まって築きあげられた人生観は、わたしの胸を深く打ちました。

 作者が、主人公の人柄を克明に掘り起こしたこの著作は素晴らしく、その執筆に感銘いたしました。

【地方議会議員】
 嵐の中に、小さな舟が波にもまれつつ幼い魂を燃やし続ける主人公、中岸さんの人柄に感動しました。
 現在の中学生や高校生に、また、ひとりでも多くの方々に、この本を読んでいただきたい。
 学ぶことのみを知って、真に生きる力を失いつゝある昨今、失意のどん底にいる若者たちよ、この本の主人公中岸おさむさんのように、這い上がれ、地の底から這い上がれ。失敗を敗北であると思い込む若者。このことで、年間多くの命を自らの手で失う(自殺)。
 失敗をバネにして、雑草のように生き抜いてほしい。そんな訴えをしている本が少ないなかで、「ど根性」の本は、失敗は敗北ではなく、人生のバネであり、苦労は他人のためではなく、自分のものであると教えている。

【教育委員長】
 「ど根性」なる作品に接する機会を得て、非常に感激している。
 今、わたしは、この一冊の本を読み終えたが、自分自身呆然としてしまって、何だか、自分の頭に占めていた既定の概念というものがすっかり掃き消されてしまったような気がしている。書評を書くその糸口すら直ぐに出てこない始末だ。  

 わたし自身の生活体験は勿論のこと、わたしの頭のなかでも想像できない、主人公おさむ君の壮絶たる生き様のなかに、現在の人々がとっくの昔に忘れてしまった人生の真の価値について答えてくれる何かがあるような気がする。

 昨今、こどもたちを取り巻く環境は誠に憂慮すべきものがあり、数多くの学生諸君が学校生活のなかで、自分の生きる意味を見失い、喘ぎ苦しんでいる姿を多く目にしますが、どうしたら彼らに、それぞれの人生目標を掴ませ、自分の生き甲斐を見つけさせてやれるのか……。日夜、悩み続けている。

 近年、わが国は、急激な経済発展により、国民生活は豊かになってきたが、反面、学校の荒廃等憂慮すべき問題が生じている。
 社会に於ける幾つもの退廃した現象、そのなかでの家庭崩壊。併せて低学力という三重苦を抱えた現在の悩めるこどもたち。そんな彼らが、自力ではどうすることもできない苦しみのどん底から激しく訴える姿……それが、教師に或いは学校に対して苦悩をぶつける行為……。こうしたことが、校内暴力の様々な姿となってあらわれているのではないか。

この「ど根性」作品のなかで、主人公の置かれている生活実態は、現在のこどもたちと比較すれば、それは、とても想像できないほど凄まじい状況である。然し、その渦中に居ても決して自分自身を見失うことがなかった。自分の生きる目的をしっかり胸に抱いて、それを支えとして這いつくばって頑張ってきた。それには、彼自身、天性ともいうべき強じんな意思力を備えていたからだ。

 そんななかで、ただ一つ、彼にとって幸いしたことは、どん底生活でも最後まで家庭が崩壊することがなかったことだ。なかでも、どっしりとした母親の愛の姿が存在していたからだと思う。だからこそ、主人公の心の裡には、親に対する孝心、貧しくとも必死で家庭を愛する心が生き続けてこられた。

 そして、周りの皆が自分を蔑み、嘲笑しているなかで、自分を認めてくれ、心のなかに一筋の光をさしこんでくれた人……それは、教師、区長、役場職員だった。これらの方々の一言によって、自らのツッパリの殻を脱ぎ捨てやる気を奮起させた。ここのところを、この本の作者は、底辺に置き去りにされたこどもたちの心理をものの見事に描き出している。

 わたしは、この作品のなかに生き続ける主人公の生き様に、また、彼を取り巻く環境に今更ながら教育の原点を再発見、再認識させられた気がする。

 今日、わたしたちの周りを振り返ってみると、こどもたちに身体に汗して、そのなかで感動が得られるという直接体験を体感させられる機会が非常に少なくなっている。とりわけ、教育現場では五感を通して得られる喜怒哀楽感情を育てることが次第に困難になってきている。このことが、こどもたちに「根性の精神、強い意志力」を育てにくくしている原因ではないかと考える。

 たしかに、この本の主人公が育った時代背景は今とは別世界の感がある。しかし、この作品のなかに脈々と流れる主題(精神的な価値)は、時代を超え、いかなる社会に於いても相通じるものがあり、作品を読む人の心を揺り動かす。

【本宮大社前宮司】
 「何気なしに足元の土をつかんだ。ひと握りの土は、ほんのりと温かい。その温もりは手のひらから腕に、胸にしみこむ。おさむ少年は、生まれて初めて確かな手ごたえを感じた。よし、土で成功したる! このとき、しっかりと心に誓った」

 このくだりは、「ど根性」中岸おさむ土方半生記の一節である。
 このとき、主人公おさむ少年は十三才。旧社地、大斎原の近くの土木作業場で休憩時のことである。この瞬間、おさむ少年は、土をとおして神との出会いを体験した。そして、熊野大神は、素晴らしい啓示を与え給うたとわたしは確信する。まさしく運命の扉がここに開かれた。
 土方仕事の経験は、この時が初めてではない。既に小学校六年の年少で真夜中から夜の明けるまで土方仕事をやりぬいて家計の手助けをしている。
 その後も、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦を見事に克服して、その度毎に大きく運命を切り開いていった。

 人間は誰しも、他人にはうち明けられない秘密を持つ。主人公中岸さんは、それを敢然と曝け出し、告白し、訴えた。このことは、[心のみそぎ] をなし了えたわけである。
 それにしても、何と、この実録小説は素晴らしいものか。只々、頭のさがる思いがする。

【地方紙、天声人語】
 「ど根性、中岸おさむ土方半生記」を読ませてもらった。
 読むにつれて、こまやかな感情表現や、くっきりと人物を浮き彫らせた、練れた文章に引きずり込まれる一方、主人公のひたむきな生き方と、まわりの人たちのやさしさに何回となく胸がつまった。

 苦しみを糧として心豊かに懸命に生きることの証を残したいという主人公の熱い思いがにじむ自分史の赤裸々さにも心打たれた。

 読み終わって、わけ知り顔でいうことになりそうだが【逆境が人間をつくる】という劇的な実証を感じ取ることができたというのが率直な感想だ。
 逆境というと、およそ今の生活にはそぐわない言葉かもしれない。まして、肩に食い込む痛さや空腹の辛さ、歯をくいしばっての我慢。そうした体験は正直いって現代っ子は一度も味わうことがなく、青年期に向かって走り出している。しかし、わたしたち大人は、こどもたちに何を託そうとするのか。どんな生き方を語りかけたらいいのか。

 物の豊かさが心の豊かさと結びつかない現代社会のひずみや、心の貧しさを嘆く声は高い。
 熟れきった繁栄社会のあとに訪れる虚しさを感じ始めたからだろうか。そんななか、人間の美しさ、強さとは何か、……心のなかに、考える錘をたらしてくれた本書である。

※以上が、お寄せ頂いた感想文の一部抜粋

つづく

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