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#創作にドラマあり八回

第八回
★「自費出版に警鐘」チラシの掲載で中断していた書き方ガイドの続きと参ります。

●自分史に挑戦することは過去の思い出を訪ねる旅への出発だ。過ぎし日の色んな場面を想起する。このことは脳細胞活性化に効果ありと脳科学者は言う。考え、イメージし、心静かに往時を回顧する。何と素晴らしいことか。苦しかったこともあったろうが、不思議と楽しかった場面の方が思い出に残っているものだ。人生とはうまく出来ている。
 さて、自伝づくりに話を進める。

●原稿が完成すると後は出版するだけだ。これは定められた段取りに沿って作業を進めればOK。出版した著者は「得意満面」AmazonKindleに俺の書いたもが掲載され、全世界向け発表された。多くの人が読んでくれるだろうと思い込んでいる。ところがそう甘くない。自分史の多くは特別な内容で無い限り殆どダウンロードしてくれないという現実がある。

 自分史の場合は出版後、知人、職場の同僚、学生時代の仲間に「今度アマゾンで本を出したんだ……読んでほしい」と通知すること。――これがファーストステップだ。うまくゆけば百冊位いは売れるだろう。だが、その先が伸びないことが多い。

●なぜ読んでもらえない……本を手にした人たちが多忙なのか、或いは、読むことが好きでないのか。なぜ興味を示してくれないのか。

●答えは……ズバリ面白くないからだ。
 更にもう一つ……時代の変遷ということもあるのではないかと考える。
 現在は超情報化現象の渦中だ。指先だけでいとも簡単にあらゆる情報を受けることができる。
 一昔前は夢物語だったことが、もの凄いスピードで実現する。
「あぁスゴイ、便利だ、これは楽だ!」のみならず、これらの文明の利器には刹那的なる面白さも加味されている。いきおい、老若男女、さらには子供までもが当然のこととしてこれらを受け入れている。ある種の洗脳現象かもしれない。

●本を読むことが好きな人々は勿論だが、そうでない人でも一応は心得ていた筈の「行間を読む」という意識。この言葉さえ既に死語になりつつある。これが人間、各々の人生にとって良いのか悪いのか判らないが、現在とはそういう時代なのだ。
 こんな状況下で、先に掲げたような従来の書出しの本づくりでは通用しない。

●じゃ、どうすれば読んでもらえる本になるのか
 本稿第二回「ど根性」の書出し部分を思いだして欲しい。これはテレビ又は映画のイメージだ。本物の映像ではないが、文字で描いた描画的文章表現ということになる。(この「描画的文章」なる言葉は私の造語)。

 約二十年前、この書き方で「ど根性」なる実話物語を児童読み物として書き上げ、クライアントの要望で5000冊出版した。――結果完売した。自分史としては大成功だった。
 寄せられた読者感想では、多くの方から「一気に読んだ」という声だった。

 その後、この方法で今日までやってきた。結果は良好。そんな中、古い書き方に固執している或文士から、
「これは単なる演劇のシナリオ台本にすぎない」と酷評された。
 正に彼のいうとおり、わたしの「文章描画法」はシナリオ・台本的ではある。しかし、それがこちらの狙いなのだ。シンプルで適切なト書(説明文)と、フィクション特有のセリフ(会話)……この二つで成り立っているシナリオ。映画監督はこれをもとに絵コンテを描く。この文章描画がしっかりしていれば、自ずとイメージがわいてくる。わたしの狙いはこれなのだ。

●読書をするということは、行間を読むこと。
 その醍醐味は、読者自身、自分流のイメージを思い描くことだと考える。同時に、このイメージが鮮明になればなるほど、対峙している物語の世界に没頭することになる。
 イメージの世界に身を置くと、物語の森に入り込み、次の行、次の頁へと魅力的な、或いは刺激的な香りに誘われ、奥へ奥へと歩を進めて行く。そして、我に返った時、このイメージたっぷりの物語の森を通り抜けている自分に気づく。これが、わたしが目指した「一気読み」だ。

●確かに、かの文士の指摘通り、自伝とは概ね私小説である。否、そうあるべきなのだ。そう考えると、わたしのやりかたは異質だ。もっと突き詰めればおよそ文学書らしからぬ作品ということになる。このことは十分承知だ。承知のうえでこの書き方をしている。
 何故か…それは、個人の自伝でも「本気で見てもらえる・読んでもらえる」からだ。

 本は、特に自伝(自分史)の類は、それを書いた著者の生きざまを一人でも多くの人に読んでもらうことが最大の目標だ。ここでは、これは私小説だとか、文学的にどうかなど問題じゃない。自著「ど根性」の場合、「元気が出た」「生きる勇気をもらった」等々、読者の意識改革に大きな影響を与えたことが、読後感想の便りを読んでみて確認された。
 わたしは、これが自伝の王道だと確信している。
 さてここで、「文章描画法」についてもう少し詳しく書いてみる。
つづく
そうだ。つまりは、洋の東西を問わず殆どの文豪も同様に苦労した。それ程に[書出し数ページ]はフィクション、ノン・フィクションを問わず物語全体で最も重要なところなのである。

 ●わたしの実践している「文章描画法」では、この点に注目。その方法とは第一行目から読み手に強烈なイメージを与えることだ。主人公が最も表現したい一場面(永い人生を回顧するとき、決して忘れ得ない場面というのが誰にでも一つや二つある筈) を、会話を主とした台本的記述でこと細かに表現する。その会話文はノン・フィクションでなければ書けない詳細な言葉が飛び出す筈。

 このとき、決して気取ってはいけない。より面白くしよう、もっと迫力を出そう、などの創作気取りは命取りになる。あくまでも真実。この点が要注意。
    
 第一シーンの段階では未だ、この物語の主人公は誰で、場所はどこで、家族構成はどうで、時代背景はどうで、などベースになるところは全く書かない。読み手が判ることはただインパクトのある主人公の、或いは、家族に起こった大事件か、大騒動か、又は、それに類する事象の一シーンだけだ。

 テレビのスイッチを入れる。先ずタイトルが流れ次に最初の場面が現れる。もっとも、予告などで予備知識があれば別だが、大抵の場合は何も知らされていない。そこで、「さぁ どうなるのか……」という想像のスイッチが入る。予備知識が無いということは、頭の中は空っぽで真っ白な状態なのだ。そこに、強いイージをもった「文章描画」が出現するわけで、このファーストシーンの出来栄えが最高なら読み手はド胆を抜かれ、同時に「何だこれは……」という意識を抱くことになる。
 何度もいうが、これがわたしの狙いどころなのである。

●さて次に、第二のシーンに移る。あらためていうことではないが文章描画は本物の画像ではない。画像のもとになるシナリオ台本の文章画像だ。あるのはポイントをおさえた簡単な説明と、登場人物の重要な意味を含ませた仕草を描写した短文のみだ。読み手は、それらを理解しつつ含蓄ある心の叫びの「セリフ」を読むことになる。会話というものは、聞いても面白いが、読むと更に味があり、想像力をかきたてられる。
 私の書棚に、文章の神様といわれた文豪、志賀直哉さんの大正時代に出版された[夜の光]という作品集がある。――大好きな短編集だ。なかでも、大正六年七月に発表された「好人物の夫婦」というのがあり、この作品の会話部分が実に素晴らしいというか面白い。どんどんイメージが湧いてくる。

 次に抜粋してみる。
つづく

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