ダンスなら結構な事
ここのところしばらく、「ひとの絵をきっかけにして僕が歌をつくる」という事について考えていました。そのことについて書きます。
しばらくの間なんとなく考えていて、先日ふと、ああそうかと思った。
これ、ダンスだ。ダンスと同じだった。
以前に幸いな経験でミルフォードグレイブス氏のドラムと田中泯氏の踊りでのステージを観た事があります。あれは帰ってから「ダンスの様な音楽と音楽の様なダンスだった」とメモした。今日書くのはそれとは違う話。ひとつのアイデアを同じ舞台で表現するというのではなくて、発表と鑑賞という様な、別の立場に別れたところでの事。
「ひとの絵をきっかけにして僕が歌をつくる」の始めの発想は、作品に付けられたタイトルへの興味からでした。色んなタイトルがあって面白いけれど、タイトルってどうやってつけてるのかなあっていうあたりから。
そうやってタイトルと絵の表現との距離について気にして観ていると作品それぞれに違った面白さがある。その事についてのメモを取りながら「あっ、これはこの感じや景色を簡単な詩に展開しておいた方が、あとから読んだ感じとして確かかもしれないぞ」ってすぐに気が付いたし、「もし書けるかもしれない時には書いておこう」っていう風にも思った。箇条書きのメモでは、見返してもきっとわからなくなってしまう。なにしろ将来歌を歌うおじさんになるのが、ささやかな僕の目標でありますからね。準備は一応にでもしておかなくては。
そうやって書いている内に勢いが付いたり興が乗ったってきたりして、作品を前にして書けそうならその作品の事でも関係ないものでもとにかく何か書いておこうと、またすぐに思い直した。
それが、去年の事。そういう事は、その時はじめてやりました。
新鮮で楽しい体験だったので、同じ展覧会を今年も観に行った。
今年は初めから書く気で、紙もポメラも持って。時間も多めに見積もって。出来れば作家諸氏の連絡先も書き留めておくようにして。でもこの時点では、書こうという気持ちははっきりしていたけれど、そのことの意味を整理出来て居なかったのです。
で、会場でつたない詩を書いておいて、出来そうなものは、今順に曲をつけたり、デモ演奏を録音してみたり。なかなか楽しんでおります。
そうやっていてまず考えたのは、こういう事が嫌がられないだろうかとかっていう事とか、それでどうやって義理を通そうかとかって事とか。
著作権的にはシロなんてす。それはわかってて。表現の基になるアイデアは、著作権で保護されないし、その事が創作を自由にしている。
タイトルもそう。タイトルが著作権で制限されたら、それは手で持つことが出来ないハンドルって事になってしまうので。
でもそれでもすっきりした気にならなかったから、もう少し自分の頭の中で整理しておきたかった。それで、しばらく気に留めてた。
そうやっているうちにやっぱり、これはなんだろう、僕は何をしているんだろうっていう事にも考えが伸びた。つまり、具体的な作業として何をしているかという事とは別に、これをしている事でどういう意味があるんだろうという事です。でもどちらかと言えば、こちらこそ考えておくべき性質の事柄かも知れない。
意味。
これをやる事での効果というのじゃなくて、単に意味を整理しておきたいという事だと思う。もし効果という言葉で言うなら、効果を与えるという事よりも、何の効果を受けての物事なのかという風に。確認された意味と確認された意味同士の関係性の指差し確認です。
具体的には、僕は歌の習作に取り組んでいるのです。下手の横好きというところの中で、この何か出来るかもしれないというきっかけを逃せない気持ちで居る。そういう状態の僕です。
そこでひとの、すでにタイトルが付けられて公開された作品を、我田引水で好きにするというのはどうなのかなとか、先方がアマチュアである方からアートビジネスを実践されている方まで様々な中で、僕は同じ基準でいられるかなとか、そういう事が気になっていたんだと思う。誰にも見せないメモを取っているだけという訳では無くて、書いたものを公開するつもりですしさ。それに、元の作品の表現する景色を保証できると言うものでもないわけですしさ。
そうしたところで、ふと「ああそうか」って思った。音楽ライブで体を揺らしていた時の事なんですけど。ああそうか、これもダンスだけどあれもまたダンスだったなあって。
絵を観て歌うっていうのは、音楽を聴いてダンスを踊るという事と同じだった。ふと思い出すように結論が出た。あっこれ、この共感の気持ちと勝手さって、ダンスと一緒だったなって。
音楽もただ耳から聴いていても良いし、体を揺らしても良いし、声を上げても良いし、ステップを踏んでも良いでしょう。
美術作品もまた、目で見ただけでも良いし、それについて説明を交換しあっても良いし、声を上げても良いし、そして、その作品のアイデアのために自分の体を動かしても良いのでした。聴こえて来た絵画を、踊っても歌っても良いのでした。ああそうか、これじゃん。
聴こえて来た音楽でダンスする時、どれだけ音声表現とダンス表現が重なるものか、どれだけ外部のアイデアや習慣がそこに混ざるかという事を考えたら、その他の割合大きさと、その音楽である必然との両方がいかに分かち難く混ざっている事かがよく分かります。これは精緻なステージダンスであっても、気楽なフロアのダンスであってもそうで。
そういう考えでもしダンスを別の言い方にしてみるとしたら、何かの存在の肯定、つまり結構さを自分自信のそれと重ね合わせて、その同じアイデアを別のやり方であらわすという事ではないかしら。そして、その表すっていうのは、謳うっていう言い方も出来ると思うの。暗い結構さも、悲しい結構さもあるかもしれない。でもそれを包んだり包み込まれたりして僕らは謳ってるのでした。ずっと前から。
それで、引用とか二次創作とかといった言葉ではどうも整理できなかった事が、音楽を踊る時に注意する事を気をつけたら、美術作品についても気兼ねなく踊って良いんだなという風にストンと腑に落ちたという訳です。僕としては、ですけどもね。
だから、大体の方針が立ちました。
写真撮影オッケーのところでは作品の写真を撮っておこう。公開オッケーなら僕の「ダンス」に添えて公開もする。作品のタイトルはこちらの「ダンス」の中身とのつながりが強ければ同じものを使うだろうし、別のものの方が良かったら他のにする。公開できなくても、僕の「ダンス」だけは好きにする。そこまでは、特に何の気兼ねも要らない。あとは、個人のアートというのは――アートとは、後ろにビジネスと付かない限り個人的な領域の物だという事で言うのですけれども――何をどう分かちあえるかというところが喜びの大きな川でありますから、連絡取れるかもしれない方々には僭越ながらとご連絡を差し上げたいし、だからと言って大した話でもないので、お返事の労については出来るだけお掛けしないようにしようと。
大体、そういう感じです。
自分の作品をひとに使われる事を無条件に喜ぶ人も要れば、条件を付けないと自分を納得させられない人も居れば外部管理システムの許可を待つ人もいて、そのあたりは中々デリケートな事です。
でも、ダンスなんだよなー、これは。音楽は踊るものじゃん? 美術作品もそれで構わないんじゃないかな。
そうだよ、なーんだ!って感じ。ストン。
僕が、出会った美術作品と正しく通じ合ったり分かち合えたりしたか、それは分からない事なのです。でもそういうのは、時々の僥倖としてありがたく喜ぶけれど、普段はそうじゃなくても別に構わないかなあ。
作品の雰囲気にくすりとしたり、表現手法を確かめたり、バリエーションに笑ったり、せいぜいその程度でも十分に楽しい。
だから、気楽に絵を聴くのです。聴いてかじって、ハナモゲラハナモゲラと謳いあうのです。楽しい気分なら掛け声を飛ばしたりして。
振り付けもストーリーも無いけど、聴こえて来たものに体が動けば、それはそれでダンスはダンスじゃないかしら。自分の足が地面を蹴ったり、手のひらが風に溶けたり、骨盤に海を感じたり、そういう風にしてダンスは楽しいです。
ついでに、何を考えてるのかわからない隣の踊り手と、何だか分からないまま、ニヤケ合えたりしたら、尚いっそう楽しい。
美術作品とダンス。僕なりには、そういう風にすっきりしました。ダンスなら、オッケー。ダンスならしょうがない。ダンスならイェー。ダンスなら結構な事。
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