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危険なキリスト教~王なる主が命を捨てた

 どんな団体でも、一番目立つところに啓示するシンボルは、団体の精神を表しています。
国の主催のイベントであれば日の丸、企業では社訓が掲げられているかもしれません。
しかし、そこにかかげられているものが、絞首刑のロープだったり、ギロチンだったりすると、おそらくその団体はやばい思想に違いありません。
キリスト教の教会の正面に掲げられている十字架は、ローマ帝国が考えた死刑の道具です。それも、絞首刑やギロチンのように、なるべく痛みや長く苦しむことがないようにという配慮のあるものではなく、人の見せしめとして、苦しみ、渇き、辱めが続くような非人間的な死刑の道具です。愛の十字架などという甘ったるいモノではなく、最もむごい死刑の道具です。それを掲げて集まる団体とは、これはもう危険な団体としか言えません。
 私はもう4半世紀もこの死刑の道具の前に、毎週集まり続けている、ある意味ヤバイ輩の一人です。みなさん、キリスト教はヤバいです。このむごい死刑の道具である十字架を何故、キリスト教会に掲げているのか?2つ理由があります。
 一つは、私たち人間にある罪の大きさは、この十字架に値するほど深刻であるという有罪宣言です。私は何も悪いことをしたことがないという人はたくさんいるかもしれません。しかし、神様の基準からは人間はかなり堕落した存在で、嘘をつき、人を傷つけ、自分のことしか考えず、そして神様に背を向けて自分だけで生きていけると思っています。聖書の中には、正しい者は一人もいないと記載されています(ローマの信徒への手紙 3章9-20)。本来、神様と共に歩む存在として創造された人間が、自分だけで生きていけるというのは、悪魔の策略です。
 もう一つは、本日のサブテーマにかかげた「王なる主が命を捨てた」ことの証です。キリスト・イエスは、旧約聖書の中にも預言されていた、人類を救う方、メシアです。キリスト・イエスが生まれた時代の人たちは、メシアとは強力な武力や才能で、当時支配していたローマ帝国をやっつけてくれるような存在と思っていたのかもしれません。しかし、実際に現れたキリストは、とんでもない奇跡はするものの、ロバに乗ってエルサレムに入城したり、いたって普通の人間です。そして、この方は、でっち上げの裁判で十字架刑を宣告され、十字架につけられてしまいました。当時の人々は、ダビデ王のように強いリーダーや救い主を望んでいたのに、現れた救い主は、あっけなく十字架に付けられてしまいました。それも、茨の冠、体中が血だらけになるほどの鞭を受け、民衆から馬鹿にされ唾を吐きかけられ、素っ裸にされて十字架につけられたのです。このことを、どう思うでしょうか?弱い救い主など、必要あるでしょうか?しかし、この一見弱い方が、神様の子どもであることをご存知でしょうか?
 十字架にイエスキリストを付けたのは誰か?ユダヤ人だ、ローマ兵だ、ポンテオピラトだ・・・と色々な議論がありそうですが、究極的にそれを許可されたのは神様です。それは、人間の死に値する罪をキリスト・イエスに負わせて、十字架に付け、人間が悪魔によって騙されて背負わされた罪から解放することが目的です。十字架の意味の一つは、あなたは神の子を犠牲にしてまで救われる値のある存在である!という宣言です。
 キリスト教は愛の宗教と言われますが、そんな甘っちょろいものではありません。十字架は、人類に対して死刑宣言をしています。と、同時に神様の絶対的な愛の宣言でもあります。ヤバい人生を歩きたい方、ぜひキリスト教会でお会いしましょう。この世の中で行き詰った方、あなたはある意味まともです。人間本来の在り方を離れて、まともでいられることの方が異常です。
危険な十字架の元には、創造主なる神様の愛が血と共に溢れ流れています。


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