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八百屋の黒板の物語「春キャベツ」

 休日の夕方、圭太はキャベツを解体している。
 一人暮らし用の1Kのキッチンは薄暗く、寒い。
 スウェット姿の彼はまず、まな板の上に置いた春キャベツ丸一玉の外側の葉から剥いていく。ふわりとした見た目の濃い黄緑の葉っぱをまな板の端に重ねる。

 狭いキッチンには、キャベツからしたら残酷な音が響く。もちろんキャベツには耳は無いし、残酷な圭太の耳はイヤホンで塞がれていて、その音はろくに聞こえない。

 イヤホンから流れているのは、むかし美穂から教えてもらった女性アイドルのラジオ番組で、今では圭太も熱心に聴いている。あぁradikoはありがたい。

 こうやってキャベツを熱心に食べる様になったのも、美穂の影響だった。ちょうど一年前、彼女がまだこの部屋へ頻繁に通っていた頃のことだった。二人で近所を散歩していた時『まるまり商店』の黒板が春キャベツだったのを見て
「キャベツダイエットしない?」
 って突然彼女が言い出した。

 
 圭太の通勤路に『まるもり商店』はある。古くからあるボロい青果店で、その店の交差点に面した目立つ面に、その黒板の看板がある。大きさは映画のポスターぐらいの大きさで、チョークでリアルに描かれている。いわゆる黒板アートというやつだ。
 頻繁に描き変えられるその黒板には、巨大なキャベツの絵と、『春キャベツ』という文字だけが書かれていた。

 圭太の返事を待たず美穂は店内に入り、大きなキャベツを抱えて戻ってきた。何故かにやにやしている。
「戌井昭人読んでた」
 彼女の好きな作家の名前を圭太に報告してきた。
「図書館の本だったけど、実際にあの作家の本読んでる人初めて見た」
 店主のおじさんが読んでいたらしい。
「あのおじさんが黒板も描いてるんだって」
 重いキャベツを当然のように圭太に手渡し、小走りに部屋へと急いぐ。
 あの頃の彼女はいつも楽しそうだった。

 剥き終わった外側の葉から茎の部分を切り取り、洗ったあと、五センチ四方にちぎってジップバッグにつめておく。この部分は、後日炒めたり焼いたりする料理になる予定だ。
 残った中心に近い部分も剥いて洗ったあと、今度は三枚ずつ丸めてせん切りしていく。焦らずゆっくりと葉脈を断ち切るように切る。

 千切りをしている間は、余計なことを考えずに集中できるのがいい。職場でスライサーの良さを語る人がいるけれど、葉っぱの硬さや切る角度が調節できないのはいただけない。

 千切りにしたキャベツを2分ほど水に晒す。その後、水気をよく切ってキッチンペーパーを敷いたタッパーに詰め込んでキャベツの解体が終わる。

 そういえば、キャベツの内側と外側の違いを教えてくれたのも美穂だったっけ。
 集中しているつもりが、昔の事ばかり思い出してしまう。たぶん、まるもり商店の黒板がまた春キャベツだったせいだ。


「お、春キャベツ」
 ただいまって言う前に、帰ってきた美穂が茶化す。彼女も黒板を見たはずだ。
 念入りにうがい手洗いを済ませた後、タッパーの中から千切りキャベツをひとつまみして口に運んだ。
「ねぇ、まるもりのおじさん、何読んでた?」
 そう聞く彼女がこの部屋に転がり込んできてから、もうすぐ半年になる。

 季節はまだ真冬である。


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