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バー経営は良心的兵役拒否?

クラファンに出資した。詳細は後述する。

初めてクラファン(クラウドファンディング)に参加したのはいつだったか? おそらく日本画家・中村正義(1924-77)のドキュメンタリー映画「父をめぐる旅 異才の日本画家・中村正義の生涯」の製作費募集だろう。

http://www.cinemanest.com/masayoshi/member.html

2010年にはクランクインしたというから、震災以前である。当時はクラファンと呼ばなかったかもしれない。親しくしていた正義長女の倫子(のりこ)さんから映画の話を聞きwebで出資した。純粋に「好きな画家を描く映画の出資者になれる」ことに興奮した。完成後に試写会に招待され、最後のロールテロップに自分の名前が映し出されたのがうれしかった。出資してよかったと思う瞬間だ。

クラファンは3.11震災以降、雨後の筍のようにニョキニョキ登場した。実際に出資したのは「石巻に松山バレエ団を招聘して被災した子供たちに本物のバレエを見せたい」というのだった。

クラファン専用サイト古参のREADYFORだったので、狭義のクラファンならばこれが最初か。ほかにも「仮設住宅に住む被災者にかつての石巻の街並みを描いたカレンダーを送りたい」というプロジェクトや、海産物など石巻の名産品を製造販売する若手経営者グループの起業支援などにも出資した。いずれも自分の感性を頼みに「応援して関わりを持ちたい」と思えるプロジェクトに出資したつもりだ。

山小屋を思い立ったとき、クラファンという考えが一瞬よぎったがすぐにかき消した。ありえない。オレが好きでやることになぜ他人を巻き込まなきゃいけないのか。クラファンサイトを見ていると、どれとは言わないが「自力でやれば?」というプロジェクトが目につく。

山小屋を開業した5月の連休の2日目だったか、夕方にオープン案内ハガキを持って知り合いの店を挨拶して回ったことがあった。開店準備のために店に一人籠城して遅くまで作業していたので、エプロン姿でハガキを持っていくと「なんだべ、はっぱ来ねなと思ったらこいなごどやってたのが」と呆れるやら感心するやらで、ようやく仲間入りできた気がした。ある人から「自分の散財でやんのが一番だよ」と言われたのが印象に残っている。クラファンブームにチクリと刺したかったのだろう。確かに一人で自由気ままにやることの楽しさ痛快さは、クラファンでは味わえないだろう(資金捻出の苦労はさておき)。

山小屋周辺でもクラファン案件は多い。こちらが出資するにしても、上記のように純粋な応援もあれば、お付き合いもある。夏祭りの盆踊り会場に寄進者が貼り出されるようなもので「山小屋さんの名前ないけど?」などと言われたら困るのだ。金一封でなく一升瓶や樽酒で、という手もあるけれど。

冒頭のクラファン案件に戻る。国立市(谷保駅)にスナックを開業したい女子大生。一読して「モロ手を挙げて賛同」ということでもなかった。国立・谷保という街に特段の思い入れもないが「オレと似たようなことやってるな」という親近感がそうさせた。知ったのは朝日新聞の記事(https://www.asahi.com/articles/ASQ2156Z4Q10UTIL02C.html)だが、「一橋大卒→スナックママ」という激しい(わかりよい)落差を、記事も読者も楽しんでいるところがあり、そこがモロ手を挙げにくい点だった。ひょっとして、本人も落差を楽しんでいるかもしれない。バリキャリ(バリバリのキャリア志向)から戦線離脱したところなど、ヴェトナム戦争の良心的兵役拒否のような昂揚が感じられた。

さて翻って。オレにもそういうところは、ないのか? 東京の、一流とは言わないが、そこそこ評価の高い会社の役員待遇をかなぐり捨てて被災地石巻の場末で安酒バーを出すというヒロイズム(太字表現がなんとも胡散臭い)。店のことだけでなく、震災後ずっと、石巻に帰っていることをいちいちSNSで言挙げしてきたことも、自分の愛郷的行動に酔っていた証しではなかったか。

書いていて思い出したが、20代の頃に週刊誌SPAの取材を受けて「巷のビーチボーイズ*大集合」なる巻頭企画に写真入りで出たことがある。勤めていた会社の社長とケンカして転職先を探していた頃で、知り合いの紹介で銀座三越地下でイタリアンジェラートを作っていた。毎晩飲み歩いていた新宿ゴールデン街でSPA契約ライターと親しくなり、新卒で入った衛星放送局からジェラートバイトへの落差(年収レベル)を嗤う企画に協力したのだった。取材を受けている自分もその落差=落ちぶれぶりを楽しんでいた。その後かなり貧困状態に陥り自虐どころではなくなったが(翌年起死回生の転職達成)。 *「ビーチボーイズ」はフジテレビ月9ドラマのタイトルで、元エリート商社マン(竹之内豊)がサーファーの集う民宿に住み込みで働く設定だった

玉石混淆クラファンに対し「自分の散財でやれよ」と思うこともままあるが、主宰者の多くは若者で資金がないのは当然だ。かくいうオレは50台半ばとなり若者に夢を託す側になってしまった。いや、他人の夢に仮託している場合ではない。オレはオレで夢をつかみ獲るのだ。夢の実現に老いも若いも早い遅いもない。あとはそれぞれに方法論を探るだけのこと。

議論が右往左往しているが、何を言いたいかといえば、クラファンとは「こんな愚直なチャレンジをしている私がここにいる」というアドバルーンだと思っている。興味関心を持った人々がそのバルーンを目指して夢実現の現場に立ち会い、本人に声援を贈るシステム。羨ましいったらありゃしない。オレだって「東京で月金9時5時のサラリーマンしながら週末は450km離れた石巻に帰ってバー(昼は喫茶店)をやってますとも、エエ」と、声高らか鼻高々に宣言したいよ。

こうしてnoteを始めたのも、クラファンではないが、何がしかのアドバルーンになるんじゃないかと考えてのこと。さらにいやらしく言うなら、件の女子大生(noteあり)が一流紙・朝日新聞の取材という栄誉に与ったように、オレも記事をシコシコ書いていれば、いつか街ネタ渉猟でネットをタムロするブンヤ風情のお目に留まるのでは、と思った次第でして…

どこが良心的兵役拒否じゃい。