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ずっと咳が止まらない

しばらくnoteの更新が止まっていました。

それは、1月からずっと体調不良だからです。微熱、咳、鼻水が止まりません。とくに咳。コンコンコンコン・・・コンコンコン・・・「ご安心ください。PCR陰性ですから」とあいさつのように言い続ける。のど飴をなめ続ける。呪術廻戦ののど飴があるのは嬉しいけどあんまりおいしくない・・・本当にどうでもいいことばかりで生産性のない私。そんな中、コロナというものが出てきてから自分の身に起きた変化をお伝えしようと思います。参考にしたのは、最近受講していた磯野真穂さんのオンライン講座「他者と関わる」です。

今までは私は私である、という自分に対してあまり深く考えずに疑ってもきませんでした。われ思う、ゆえにわれありーーと人は言いますが、その言葉をそのままふーんと受け取っていました。会社員であり、心理士であり、母親である。さまざまな関係の中で役割を持つ私に「感染しているかもしれない人としての私」が出てきました。

咳をする。

鼻水が垂れる。

アレルギーで喘息もちの私からしたら日常ですが、コロナ禍になってからは「正しく感染予防できていない人」というレッテルを意識します。電車の中で咳き込もうモノならば白い目でにらまれ、会社は出勤停止になる。でも治るまで業務は置いておけないから出社する。するととても嫌がられる。「うちの部署から感染者を出すわけにはいかない」と言われる。

休んでも休まなくても具合が悪い人は非常に、強く嫌がられる。

そのうち私は発言を控え、静かに過ごし、なるべく目立たないように生活する。noteの更新ができないわけではないのに、「風邪症状があるのに更新するなんて、そんなことをしているから回復しないんだ」という「世間の声」「正しい医療者の声」が聞こえる気がする。だからできない。楽しんではならない。世間の目は、私の中に内在化される。

オフラインだけでなく、オンラインでも交流を避ける。

こうして、「病気の人」「正しい予防ができていない人」が出来上がる。はじめはちょっとした不調だった人が、コロナ禍で思ってもみないほどに不調になっていくにはこういう「感染予防の正しいあり方」「コロナの正しい理解」が背景にあるのではないか。

こういう時に、クライアントさんたちはとても優しかった。世間の声や「適応」に敏感な彼らは私の置かれた状況を何も言わずに理解してくれているようだった。いつでも普通に体調を心配してくれたり、「咳減りましたね」と声掛けしてくれた。それは同僚よりも、上司よりも、見えない世間よりも、感染者数の数字ではない、個別の関わりだった。(念のため言っておくが、カウンセリングセッションの中でカウンセラーの体調はまず話題に上がらない。ただ、咳があまりにも、出ていたのだ)。

社会という「コロナ感染予防の正しい理解」ではないところで私個人の身体について話すことがとても難しくなったのだと、彼らを通して分かった。

さあ今は花粉症。

これも医学的に正しい対処法を取っているかどうかを問われる時代になったのだろう。でも、体調ってそういうものじゃない。寝不足の夜もあれば機嫌のいい日もある。花粉症がひどい日もひどくない日も、なんでか突き詰めたら正直よく分からない。

もちろん病院に行って服薬して、検査して、世間で言われる対策は一通りとってますけどね、と言わなければならない。誰に向けてのエクスキューズなのか。

日々の生活の中で、「正しく感染予防できているのかどうか」をひとつの社会的態度として意識しなければならない。今日も私は症状で切り取られる。


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