【転載】「淫夢」とは何だったのか

以下の文章は星りん兄貴のブロマガ「星りんのブロマガ」にて、2020年06月14日に投稿された記事
『「淫夢」とは何だったのか』の全文です。



淫夢とは何「だった」のか、と過去形になっているのは、自分にとってはもうタイムリーなものでなく、以前はよく見ていたけど今はあまり関心がない、というぐらいの意味で、別にオワコンだと言いたいわけではない。だから今でも淫夢を熱心に追っている人がいてもそれを馬鹿にする気は毛頭ないので、そういう人が仮にいたとしてもそれはまぁいいんじゃないですかね(笑)知らんけど(笑)

淫夢と一口に言ってもいろいろあるわけで、本編と言われる動画でも、まず原典なる「Babylon 34 真夏の夜の淫夢」から始まり、正統古典として「Babylon Stage 27 誘惑のラビリンス(所謂「迫真空手部」を収録)」、そこから列伝として数々の単発本編動画があり、この時点ですでに20本を超える。そこから新正統本編として「悶絶少年 其の伍(アクシード三人衆を収録)」およびその列伝およそ10本。また外典として「淫乱テディベア」「課長こわれる」「狂った野獣たち」「職場淫猥白書(関西クレーマー類集)」などなどおよそ20本
さらに「日本昔話(イワナの怪)」や某ボイスドラマなど偽典とも言える準本編を合わせると、その総数は70~80に上るのでないか(何を「本編」とみなすかは人によるだろうが)

動画コンテンツ上のミームとしてこれほど広範囲にわたり複雑怪奇で雑多な、体系的ともいえない体系を持っているものは、ほかになかなか類するものがない。このミームを包括して説明できる人もおらず、例えば今現在の本拠(?)となっているniconicoのニコニコ大百科にさえ、ゲイビデオ「真夏の世の淫夢」に関する記事はあっても、「淫夢」というミームを言葉にして捉えた記事は存在しない。

かくいう自分も「淫夢」をいろいろ弄った過去と現在がありながら、なにかとブツクサと理屈を捏ねるこのブロマガで「淫夢」を言葉にしようとしたことはなかった。

そもそもこんな話題に触れること自体がモラルに反する部分(少なからぬ人の名誉を傷つけるおそれ)があるし、また、ネットのミームは「不文」的な価値観があって、わざわざ文章にして分析するようなことは「無粋」と捉えられる傾向が強く、本質が掴みどころのないことと合わせて、言葉にしたところで余計な波風を立たせるだけだと敬遠してあまり話題にしてこなかった。

のだが、しかし、どこかでこのミームを長文でもって言語化する機会が必要なのではないか、と感じることはある。

おそらくこの記事で「淫夢」の全体像を描き上げることはできないだろう(私の言語化能力の問題と、あとこんな記事のために割いてよいプライベート時間を秤にかけるとそんなに文量をかけられない)から、今回は「淫夢」の展開をネットの時世と絡めて追うことで、このミームの由来と、その根っこにある「何か」について、個人の視点から感じたものを記す。

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「淫夢」とやらはどこから来たのか?(生まれたのか)

そもそもは2002年、当時のドラフト一位投手が在学中にホモビデオに出演していたことが週刊誌にすっぱ抜かれ、そのビデオタイトルが「真夏の夜の淫夢」だったことがこのミームの起点となった。それから足掛け18年(!!)に渡って「淫夢」は展開されていく。

ゼロ年代のはじめ、当時の一般世間に通用する「ホモ」と言うのは、美川憲一を筆頭に所謂「オネエ系」と呼ばれるオカマのイメージで、女に変身した男、あるいは「女の真似をする男」「男なのに女心が分かる変な人」ぐらいの存在だったから、その実態についてはほとんど知られていなかった。

だから、女性風に装飾されていない、男性的な肉感そのままの男同士が絡み合う姿・・・男として男のチンコを男のアナルにぶち込んでやるぜ!というリアルホモセックスの姿は、一般人にとってはまったく想像を超越するものだっただろう。ましてや当時はポルノな情報にアクセスするにもそれなりの緊張が伴った時代で、性のタブー性はいまよりもっと強かったのでないか。当時のネット環境から「淫夢」の伝播の経路は動画ではなく文章が主流だったが、男の同性愛と、さらに剥き出しの性交渉という二つのタブーが合わさったそれは、テキストであったとしても、かなり強烈な内容だったと思う。

特に0年代前半のネット(の中心にあった2ちゃんねる)は今よりずっとアングラ感が強かったわけで、こう言っちゃ悪いが、ノンケにとってホモセックスのお話は痰壺を覗き込むようなスリルがあり、怖いものへの好奇心、グロいもの見たさという不純な動機が、当時は未知のものだった男同士のセックスのリアリティに惹かれ、「淫夢」を特別な記憶にしたのでないか。

で、細かい展開は省くが、「淫夢」の軸は「有名投手がホモビデオに出演してチョンボした」という個人の悲喜劇から、次第にホモの性文化全般への好奇心へと移っていった。有名な「六尺兄貴」や「イサキ」のコピペがそうだが、その関心は一面的なもので文化的なダイバーシティに繋がるものではなくって、2ちゃんねるのなかにおいてもよりアングラな(しかし犯罪性のない)単なる「ネタ」として共有・模倣されていく。

ここまでが2000年代中頃までの展開で謂わば「前期淫夢」である。

前期の特徴として言えることは、インターネットがほとんど初めてホモの性文化に接触したことであり、そして特殊な性文化をインターネットコミュニティの住人がミーム化する初めての試み(?)だったことだと思う。

思うが、まぁ、強いて言っても、その程度のことにすぎない。

「前期淫夢」は実のところ大したミームでもなく、だいたい2chのガ板(ガイドライン板)を本拠としていたと思うが、コピペネタ改変ネタを扱うガ板にはほかにも沢山のスレがあって「淫夢」はその数ある内の一つに過ぎず、そして特段の勢いがあったわけでもなかった。
2000年代中頃といえば、最も勢いがあったのはニュース速報VIP板だったと思うが、そこが最も人口が多く勢いがあって、今の動画サイトや呟き系SNSにあたる位置を占めていた。数あるまとめブログも挙ってVIPのネタスレを掲載していたが、そんな時勢のなかでも「淫夢」はほとんど脚光を浴びることもなく、日陰の存在であり続けた。

しかし、そういった状況は、web2.0以降・・・特に2010年頃以降(けいおん!のヒット当たりを境に)次第に変わっていく。

それは単に動画サイトの台頭によるコンテンツの入れ替わりのように見えるが、私見では、10年代前後のネット社会を取り巻く構造の大きな変化が根っこのところで絡んでいたと思う。

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web2.0以降、インターネットの利用人口は一気に増加する。それに伴い旧来からのユーザー達は大きな問題に直面し、そして、大げさに聞こえるだろうが、この問題を適切に解決し損なったことが、現在の日本のネット上における知性的な問題の原点だったと感じる。

この頃の日本の時代精神は簡単に言うと、ファイナルファンタジーより脳トレが売れる、それでいい、そんな時代だった。

「コア」よりも「ライト」へ。のめり込むのではなく暇つぶしのために。

ゲームを例にとれば任天堂はグラフィックに代表されるハード性能の進化よりも、よりゲームに興味のない一般層への販売拡大に将来を託した。まだサブプライムローンが弾けていなかった時期であり、金融工学なんて胡散臭いカルト宗教やネオリベヤクザが闊歩していた時代、成熟した資本主義の世の中においては馬鹿正直にクオリティを追い求めなくとも、実業なんか放置して産業が空洞化しても、何であれカネさえ動けば、効率的に利益さえ上げれば世界は回るのだと吹聴されていた。一部の人間が感動する長編よりも、より多くの人間の目に留まる短いコマーシャルなメッセージが重要だった。いまになってみれば、あれはweb2.0がもたらそうとしているソーシャル時代の前兆だったんでないかと感じる。

ガラケーやスマホやノートpcなど、携帯ネット端末の普及はネットユーザー人口の増加を引き起こしたが、新たにやってきた「ライト」なネットユーザーの財布を狙って、商業主義もやってきた。

いままでネットは「アングラ」で、ファイル共有ソフトが幅を利かせて違法ダウンロードがのさばり、商品・サービスを盗むのは当たり前(購入厨なんて言葉まであった)、騙し騙され酸いも甘いも噛分けた「情報強者」たちはパソコン代とプロパイダ料金さえ払えばあとはすべてタダで済ませられるスキルをもっていたから、彼らが「カネを払うに値する」と納得するサービスのハードルはぐっとあがり、ネットは無料乞食の巣窟と化してポルノ以外はカネにならない惨憺たる状況になった。

そこにウブな一般人たちが大量にやってくる。

するとネット上での商業のハードルが一気に下がる。

それだけでなく、これからもパイが拡大し続けるであろうことを見越した企業群がネットに大量の資本投下をするようになって、今までは小遣い稼ぎにもならなかった広告バナーが結構な生業として成立するようになった。

かつてエンターテインメントを生み出していた2ちゃんねるのニュース速報VIP板は、「ライト」な新参ユーザーたちの大量の「馴れ合い」書き込みの濁流に押し流されていき、古くからいた人々は憤慨していたが、一方でライト層の財布から落ちる小銭がなかなかの額になると目敏く気付いた広告企業が、各種サイトを唆して金儲けへと走らせた。

純粋に面白いものを発掘・蓄積したいと考えていた「まとめブログ」は、次第にサイドバーに張り付けた広告クリックを稼ぐために、記事のロンダリングとマッチポンプに手を染めるようになっていく。このころ、ステルスマーケティングという言葉も注目を集めた。

ほどなくしてネットのアーリーアダプターたちは人口に膾炙していた教訓を再確認することとなる。

それは、人口の増加(市場規模の拡大)は、必ずしも面白さの増加を意味しない、ということである。

大多数の一般人は何の刺激もない日常でも楽しく過ごしていける。野菜レイパーや浪速のシューマッハがいなくても問題ないし、ジーパン履いてる女だからってヤレるわけじゃないのも当然だし、話す誰かに対して無職やニートや童貞なんて「持たざる者特有の感性」を求めたりもしないわけだし、匿名でなくても問題はない。映画「LIMIT OF LOVE 海猿-UMIZARU-」を見て「感動しました!」と平然と言える頭空っぽの優良健康児でなければ正気でいられない世界を、彼ら彼女らは平然と生きている。そんな人種が、大挙してネットへやってくる。これもう宇宙人の侵略である。

あの頃のインターネットは人が増えれば増えるほどつまらなくなっていったし、人々は前よりも却って分断され、孤独になっていった。
いままでとは大きく変わっていくネットに、もう自分の楽しみ方はそこにはないように思えて、これからどうすればいいのか、どこにいけばいいのか、途方に暮れる人も、喪失感に落胆する人もいた。

残る道は、インターネットに見切りをつけて卒業するしかないのか。

むろん「後期淫夢」の興隆に参加した人々が、必ずしもネットのアーリーアダプターであったとは・・・この手の喪失体験をリアルタイムで味わっていた人々であったとは限らない。

それどころか2010年代前半に初めてネットに参加し始めたような、ちょうど上でいう「ライト」な新参者の移民集団の一員であった人々も、結構な割合で含まれていただろうと思われる。

しかし、この場合、ネットにアクセスし始めた時期の前後は問題ではないし、「喪失体験」がリアルタイムだったかどうかも問題ではない。

なぜなら、たとえ「ライト層」の一人であったとしても、その中には多かれ少なかれ時代の風潮に馴染めず、居場所を見いだせない、ぶっきらぼうな孤独感を抱えている人々もいたからである。そういった人々は、いわば時間軸を超えてあの喪失体験を先人たちと共有していたのでなかろうか

そしてその手のロストジェネレーションな人々の逃避先として、ちょうどそこに「淫夢」があったのでなかろうか。

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ニコニコ動画が発足したのが2006年、「淫夢」の動画はその最初期から投稿されていたが、その数は微々たるものでランキングに載るまでもなく、タグ検索から新着動画を探す時代がしばらく続いた。

2010年代に入って状況が俄かに変化し、野獣先輩のBB劇場が登場してから「淫夢」の視聴人口は着実に増加、ゴキブリがリビングに現れるように「淫夢」系統の動画が総合ランキングに顔を出し始め、身内からも「ランキング入りはまずいですよ!」と騒がれ始める。本家から派生して「クッキー☆」が(深刻な風評被害の結果として)誕生。「クッキー☆」はのちに独立していくが、こういった派生ミームを生み出すほど「淫夢」の人口が増加していたわけである。

さらに「淫夢」は2013年から2014年頃まで続く音MADブームに乗ってコンテンツを拡大させ、2015年以降はニコニコ動画の「例のアレ」カテゴリに盤踞してこれを実効支配しつつ(ホモコーストで追い出せなかった末路。運営は広告で収入得てるんだからこんな下品なミーム生かしておくなよ)2017年頃までに最盛期を迎え、それ以降は勢いが緩慢になり徐々に失速していくが、それまでの間にさまざま大きな事件もあった。

例えばローソンリクエストやMOCO'sキッチンで「野獣先輩」が読み上げられたり、有名声優姉貴が「微レ存」の誤用について半ギレ指摘したりといったものだが、クッソ汚い語録がリアル世界で用いられたことに大騒ぎする光景は、身内ネタがテレビに映って「祭り」になる往年の「2ちゃんねる」の姿を思わせなくもない。

「後期淫夢」の大きな試みの一つは、濁流のように押し寄せる「ライト層」の水平化・無個性化・日常化のなかで、匿名掲示板文化の「濁り」を、動画サイトというコンテンツ上に移築再現しようとしたことだった。

ニコニコ動画はyoutubeのように一方的に視聴するだけのサイトではなく、動画上に流れるコメントという形で視聴者が動画の一部として参加することができたから、その点では有用だったが、それでもたかだが4秒程度しか表示されない一行コメントではテキストサイトのような融通は利かず、匿名掲示板の文化は本来再現できない。実際、ニコニコ動画も2007年頃までは掲示板以来のノリとして「全員で盛り上げる」というクリエイティブな気概があったが、ほどなく限界を来して、一部の投稿者の作品を座って鑑賞するだけの映画館的な形に落ち着いてしまった。

だが「淫夢」の場合は短い定型文を「語録」として使用することで、その背後に身内にしか伝わらない大きな文脈を宿らせることができたし、また同時に汎用性の高い語録(つまり一般人から見ても字面だけではほとんど違和感のないフレーズ。のちに「言葉狩り」の温床となる)は、だからこそ有効に機能するために動画という明白な舞台装置を必要としていた。双方が二つの車輪として両立したからこそ、これほど長い期間に渡ってコンテンツが循環機能したわけだが、そう見ると悲しいことというか皮肉にもというか、ニコニコ黎明期の理想は淫夢の中にこそしっかりと根を下ろしていたとも言える。運営生きてるかー?

振り返ってみると「淫夢」は、つまらなくなる前のインターネットを、無意識のうちにもう一度やりなおそうとしたものだったのでないか。

かつてインターネットは何の対価も受け取らずに匿名へと去っていく名も無き人々の努力によって作られていた。商業主義は強力な引力によってその人々を破壊していったが、その引力を断ち切るための刃として、「淫夢」の持つ汚さと閉鎖性は非常に有効であったらしい。いわば「淫夢」は、表の商業主義から隠れることのできる「ぼくたちの秘密基地」だった。学校での友達付き合いや、リビングのテレビに映る恋愛ドラマに生きがいを感じられない人々も、あの秘密基地のなかではこの世界を楽しむことができたのだ。

私は「後期淫夢」を、商業主義・・・「インターネットを単にビジネスチャンスとして合理化しようとする巨大な動き」への抵抗、という文脈で感じ取っている部分がある。

そしてこの商業主義には企業やそれに準ずる個人だけでなく、営利目的から離れたまったくの一般人も含まれることを強調しておきたい。

なぜならアドセンスをつけていない一般ユーザーであったとしても、人々は単なる「消費者」という形で商業主義に加担しているからである。商業主義はこの世界のほとんどの個人と、そして彼らの織り成す人間関係を内包しているのであり、だとすれば、商業主義から外れるということは、世間一般の人間関係から一時的にでも(家でパソコンの前に座っている時だけであったとしても)抜け出し、一人ぼっちになるということだった。

「淫夢」は、そういう孤独な人々による(無意識の)抵抗の一端だったのでないか。

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2010年代半ば以降、日本のインターネットはいままでよりも増して外部から大きな影響を受けるようになった。

直截的な原因は、日本の相対的な国力の低下の影響がこういった世俗文化の段階にまで浸透してきた結果ではないかとも思う。もはや日本国内では新たなムーブメントが起こらず、ニコニコ動画を最後に国産プラットフォームがコンテンツ需要を満たすことはなくなり、ツイッターやyoutubeを通して海外から新しいムーブメントを輸入しなければならなくなった。このころからなんとかチャレンジだとか、流行も海外からやってくることとなる。

人々はSNSやアプリを通じて直接こういった海外の文化にアクセスする一方、日本の伝統的な商業主義勢力(特に身内で仕事を回しあうだけの商業モデル)は弱体化していき、かつてインターネットは表の商業主義に対するカウンターとして大きな役割を持っていたが、そういった抵抗運動の意義も一緒に失われていった。

「一体なにと戦ってんの?」という具合に。

「つまらなくなる前のインターネット」などという文句もこうなったらもはや単なる時代遅れで、「ネットを戦場にした商業主義との戦い」などは、物心ついたときから生活インフラとしてのネットに囲まれたデジタルネイティブ世代の新規参入者にとっては実感の沸かない世界観で、アラサー・アラフォー世代が懐古するだけのつまらないものになっていた。

そんなもの取り返したところで意味は無いし、誰も取り返してほしいなどと望んじゃいない。インターネットはもう、とっくに新しい別の時代を迎えており、おっさんたちの懐かしむ「つまらなくなる前のインターネット」どころか、「つまらなくなった後のインターネット」でさえ、いまや過去の通過点になろうとしている。

「孤独な抵抗」はいつのまにか「孤立した時代錯誤」に変わっていた。

そして、時代に置いて行かれた孤立した人々は、自己正当化のために自分たちの居場所を守らなければならなくなり・・・これ以降の展開は、終わったコンテンツの終わった後を語るのと一緒で、ほとんど記述するに値しない不毛な内容であると思う(所謂、なぜ淫夢は廃れたのか?といった最もつまんない類の愚痴)だから、これ以上は詳しくは触れない。

とにもかくにも、インターネットとインターネットを取り巻く環境はそれだけ大きく変わった。

かつてない巨大なグローバリズムがすべてを飲み込もうとしているが、図らずもそのために、かつて「抵抗勢力」が敵視した「全てをつまらなくする表社会の商業主義」は、その影響力を減じ、今やインターネットの下位互換に成り果てている。

ネット上のソーシャルな空間はますます細分化しつつあり、「淫夢」も無数にある「駄弁り場」、あるいは教室の隅に小さな塊となっている「仲良し四人組」の一つに過ぎなくなって、「淫夢」が特筆に値した時代も今となっては過去のものである。

だから私が文章にしようとした「淫夢」は、今はもう過去のものであると思う

冒頭では個人的な感覚として過去と言ったが、やはり個人的な考えでも過去のものになったと思ってる。

「淫夢」はおそらくこれからも続いていくだろう。

というのも、例えば5chの東亜ニュース+板には「ホロン部」という言葉が現役であったころと本質的には変わらない空間が令和の現在になっても残っているからで、それを見るとやはり「淫夢」も、ガラパゴス化したコミュニティ内で時の止まった化石のように半永久的に存在し続けていくのでなかろうか。

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ここまで読んできて

「星っプさぁ・・・前に書いた記事と本質的に内容が同じだよね?焼き直し記事をわざわざメール配信される気持ちがわかるかい?」

とコメントしてやろうと思っている人も、中にはいるかもしれない。

指摘ップさぁ・・・・・・・・・・・・・・・手加減はないのかい?

まぁ確かに独立して別個に記事を立てるほどの内容かといえば、今見返してみるとそれほどのもんでもないかもしれない。

そもそもネットコミュニティのサイクルとして、人々は面白くなくなったコミュニティからまだ面白そうなコミュニティへと渡り鳥のように移っていくものであって、淫夢の興隆も単なる流行コンテンツのサイクルの一部分にしかすぎないと、もっとさっぱりまとめることもできるし、むしろこんな汚いコンテンツはウダウダ語らず短くシンプルに言及するにとどめておくべきなのかもしれない。

ネットを渉猟していれば(いまとなっては珍しい)長文ブログでも、筆者の人間性や人間的感性の表現を二の次にして、単にテキストの巧緻な技術を披露するために触れなくてもいい話題に触れ文飾を衒う評論系オタクが結構いるが、この記事でやっていることもとどのつまりはそういう連中と同じでないか、と言われると、うーん、確かにそうかもしれない。

日本のインターネットやオタク的なサブカルチャーというのは「無文化」であることにその特徴がある。

何にせよ「文化」というものがない、文化というものを育てようとする意識が存在しない、文化に対して愛着を持つことができない。そのような意味での「無文化」が、この社会にははっきりとある。

あれほど大好きで日ごろからギャーギャー騒いでいるアニメにしろマンガにしろゲームにしろ、それをコンテンツとして消費することはあっても、文化として大事にしよう、守っていこう、創っていこうという意識が、大多数を占める消費者たちの(もしかしたら創作者たちの側にも)まるきし存在しない。そしてその「無文化」ぶりが、モラルの完全な欠如という結果になっていて、異種族レビュアーズのアニメ化のような事態に繋がっている。

もちろん、淫夢もまた、この「無文化」の産物の一つである。

文化のないものを言葉にして表すことは本来不可能ではないか?

無文化を言葉にすることは空しい児戯に等しいように思える。先に言ったように、いまでもオタクっぽい長文ブログやテキストサイトがアニメやマンガを論じているけども、このような無文化を評論することの必然的な結果として、単なる言葉遊びや衒学趣味、もっと悪い場合は、この手の二次元作品につきまとう反道徳的傾向の単なる正当化に陥っていることが多々ある。

だから今回は文化としてではなく、ネットを取り巻く環境や社会情勢の変化と絡めて淫夢をその一端として捉えることで、なんとか言葉に表そうとしたわけ。

もっと細部に注目した内容を書けなくもなかったが、そうなるともうかなり内向きな話題になって、ますます書く意味がなくなる感がある。例えば、淫夢がここまで継続流行したのは、BB動画に求められる敷居の低さだとか、野獣先輩等の原キャラクターと界隈との距離が非常に長いおかげでお互いが束縛されず自由であることだとか、語録によるコメント展開のテンプレート化が視聴者側の参加率を高め動画作成者側のモチベーションを刺激するだのといった分析は、専ら内輪で消費されるだけのつまらない「淫夢論」であって、そんなものに時間を割いて書いても空しいだけで意味は無い。

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淫夢は面白かっただろうか?

面白かったと思う。

あの当時は東方もボカロもひぐらしも歌ってみたもゲーム実況も勿論深夜アニメもあったしyoutubeもあった。そのなかでも淫夢は面白かったと思う。

なぜ淫夢だったのだろう。

この記事は浮ついた高尚な空論ではなく、自分という地に足をつけた一人の人間の目線から書いたものである。

もし、2010年代の表の商業主義の侵攻に対する抵抗が、もっと別の方向に進み新たな文化として結実していれば、私はいま、まったく違う何かを語っていたのでなかろうか。

ちょっと時間がかかりすぎたので一旦ここで区切る。煮え切らない感があるけど、これ以上考えてると完成までにどれだけかかるかわからないんで、しょうがないね。

(了)

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