コロナと例の構文についてCL横浜2022TOP32が考察

こんにちは、ピーターサブです。
今回は盛り上がりを見せている例の構文について考察を深めていこうと思う。
「この程度の内容はツイートだけに留めておけよ!クソガキ!」と思う孤高の戦士系フードファイターの方も多いと思うが、このnoteは歯を食いしばってでも発表しなくてはならないと感じ投稿させてもらった。
(あくまで一個人の考察なのでその点ご理解をよろしくお願いします。あと文を書くのが苦手なので変な日本語だったりして読みづらかったりしたらすみません。)

・例の構文とは


まじで下ぶれすぎるって!
クラスにコロナ二人いて濃厚接触者6人いて風邪で休んどるやつ二人いてなんで学級閉鎖になんないんだよ!
隣のクラス、ワイたちのクラスと同じ状況なのに学級閉鎖なってるの意味わからなすぎる


この文について1文ずつ考察していこうと思う。
まず

①まじで下ぶれすぎるって!

初手お気持ち表明する事で、文全体の内容把握をしようとしている。
一般的には【下ぶれ】という言葉はあまり使われないが、ここでは敢えて【下ぶれ】とする事で
自分はカードゲームに通ずる者でありそれなりの用語を知っていて、一般人と差別化を図ってと考えられる。
またこの口しやすさも意図的な物を感じる。口語で書く事で”読者への親しみやすさ”も加味してるのではないかと私は考えている。

②クラスにコロナ二人いて濃厚接触者6人いて風邪で休んどるやつ二人いてなんで学級閉鎖になんないんだよ!

具体的な内容について触れている。
ここではわかりやすいように3つの文節に分けたいと思う。

(1)クラスにコロナ二人いて
(2)濃厚接触者6人いて風邪で休んどるやつ二人いて
(3)なんで学級閉鎖にならないんだよ!

(1)から考察していく
「クラスにコロナ二人いて」という文は一見普通な文に見えるが、ここには一つヒントが隠れていると思う。
文節末の「いて」だ。
振り返ってほしい、元の文で伝えたいことは主に4つあり「クラスにコロナ感染者二人」「濃厚接触者6人」「風邪で休んでいる人が二人」「なぜ学級閉鎖閉鎖にならないか」だ。
人数が同じ物はまとめてしまいたいのが日本人という物だが、コロナと濃厚接触者の間にこの「いて」のクッションを挟むことにより文全体の柔らかさを出しているのだ。
柔らかさを出すことにより「コロナ感染しても仕方ないよね!」という彼なりの配慮が伺える。これには空いた口が塞がらない。

次に(2)についてだ。
濃厚接触者が6人、風邪で休んでる人が二人。この文に何か違和感を感じないだろうか。
濃厚接触者は西洋数字を用いてるのに対し、風邪で休んでいる人は漢数字。ここに深い意味があると私は考察する。
コロナにより近いと考えられるのはこの2つを比べると若干ではあるが風邪の方が優位であり、(1)ではコロナ感染者を漢数字で、風邪も漢数字。これから筆者は濃厚接触者より風邪の方が危険であり、注意すべきだ
という警告の意味も込められてるのではないだろうか。
どうしても言葉の響き的に濃厚接触者の方が怖く感じられるが、風邪も十分危険であると認知させるのは流石としか言いようがない。
(”休んでいる”を敢えて”休んどる”と変換しているのはおそらく地域色が出てしまっているのだと思う)

最後に(3)
なんで学級閉鎖にならないんだよ!
これは(2)で述べたようにコロナ感染してる(している可能性がある)人が多いと予想され、クラスターになりかねない状況なのに何もしない学校、いや日本の教育体制の問題を酷評しているのではないだろうか。
犠牲が出てからでは遅い、早いうちに手を打ち少しでも救える命は救おう、とする人間の鏡とも言える発言なのだ。
そしてここでは少しツッコむ感じで書かれている。このような大切で1番伝えたい部分を軽快な感じで表現することにより、読み手を楽に読ませるテクニックも含まれている。

③隣のクラス、ワイたちのクラスと同じ状況なのに学級閉鎖なってるの意味わからなすぎる

これもやはり感染症への意識の高さが垣間見える一文だ。
隣のクラスという自分達とより近い状況における例を出し比較することにより、公平であるべき学校でなぜ差が生まれているのか?という疑問を呈してる。
このような不公正さがいじめや差別などの非人道的な行為がなくならない要因ではないのかと言っているように考えられる。もしかしたら自分の過去と照らし合わせ、被害を抑えにいこうと言う感染症以外の問題にも同時に向き合ってることがわかる。
筆者もここまでくると疑問をもつ感情を超え、怒りに震える心境が伺える。

〜追記〜
“ワイ”についての考察
このワイというのは少し自分を大きく見せようとする筆者自身の欲求だと推測する。いつもはクラスの中で1人で生活していた自分が惨めに感じ、辛いという負の感情を払拭するためにこの一人称を使い始めたと言う説が非常に濃厚だと言われている。
また”ワイたち”とすることにより、クラスという生徒という個人を一元化して管理するための他人に与えられたシステムにおいても、積極的に他者との絆を作る若い筆者の苦悩の先の決意が表れているのではないだろうか。

・まとめ

この文を書いた本人は感染症意識が誰よりも高く、また他の人にも配慮できる心の広さを持ち合わせてると私は考える。
以上を持って私の考察は閉めさせてもらう。
ここまでのご精読ありがとうございました。

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