3.11~あの日のこと~(その2)

(続き)

 いったいどうなってしまうのだろう。そんな不安を抱えながら、また余震らしき揺れが続くなか、業務をすべく屋内へと戻っていった。

 自分の職場は、スーパーであった。見るも無残に、おびただしい数の商品が床へと落ちていた。それを元の棚へと戻していく。

 しかし、ひと際大きな揺れに再び襲われ、肝を冷やした。努力の甲斐なく商品は再び床へと散乱してしまった。

 後でわかったのだが、これが15時15分に発生した茨城県沖を震源とする、M7.6の最大余震であった。

 度重なる地震を受けて店長が、「店を閉める」と決断した。客の安全を確保できないことが理由だった。

 それにしても、恐怖のためだろうか、トイレがやたら近い。同僚の女性も、

「トイレに行けなくなるかもしれないから、行けるうちに行っておかないと」

 と言い、何度もトイレ通いをしていた。

 僕は休憩がてら、テレビの画面を見た。当然、さきほど発生した巨大地震のニュースばかりが報道されている。

 詳しい時間や映されていた局は忘れたが、仙台空港に津波が到達したというニュースをちょうど映していた。仙台空港が海からどれだけ離れているかといった知識はなかったが、とても驚いたのを覚えている。

 僕は片付けなどを終わらせ、その日の仕事は予定よりかなり早く終了となった。

 当時一人暮らしだった僕は、アパートで1人で過ごすのも心もとないので、しばらく休憩室のテレビを観ていた。断続的に発生する余震に怯えながらも、ニュースで情報を得ていた。

 しかしいつまでも職場にとどまるわけにもいかず、ついには岐路に着いた。このとき確か20時くらいになっていたように思う。

 家までは徒歩である。いつも通る踏切に差し掛かると、妙な光景を目の当たりにした。

 スーツ姿の男性が、遮断機を手で持ち上げている。地震の影響を受け、警報機などの電源が入っていない様子だった。上がったままの遮断機と、下がっている遮断機があったように思う。

 下りたままだった遮断機を、通行人や車両を通すため、彼は持ち上げていたのだ。(なお、電車は運休となったようである)

 使命感に駆られた僕は、協力して遮断機を持ち上げた。共感して踏切の持ち上げに協力してくれる方が何名か現れたが、しばらくすると皆去り、ついには僕1人だけが遮断機を持ち上げていた。

 結局1時間くらいはそうやっていただろうか。僕もお人好しなものだ。ついに事情を聞いて駆け付けた警察官が現れ、「もういいですよ」と言われた。僕はささやかな善行をしたのだという充実感と疲労感を感じながら、踏切を去った。

 まだ1人で過ごすことに不安を感じていた僕は、まっすぐアパートには帰らず、近くに住んでいた親類の家に顔を出した。

 これからどうなるんだろうとかいう話をしながら、テレビを観た。家族の無事も、このあたりで確認したような気がする。

 ここで津波による被害が甚大であることを知る。気仙沼が火の海となっている映像を観て、ゾッとしたのを覚えている。この時はまだ被害の全容がわからず、「仙台に200~300の遺体が流れ着いている」という報道だったと思う。いずれにしても、大災害となってしまったいう実感を増していった。

 23時頃だろうか、遅くまでお邪魔してしまったものだが、ついに誰もいないアパートの部屋へと帰った。

 恐怖の夜の始まりであった。

(続く)

 

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