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補足

火縄銃は雨の日でも使えた。

中国では弓も「三段撃ち」(輪流)に変えた。

長篠合戦の真実に迫る!歴史研究者乃至政彦先生と武田軍の作戦を大考察‼️

 乃至政彦先生によれば、武田軍の作戦は、「馬防柵の南端から馬防柵の内側に回り込んで蹴散らす」だったそうです。

馬防柵の南端(「長篠合戦図屏風」)

 馬防柵の南端は連吾川と宮川が合流して豊川に流れ込む場所で、深く削られており、馬防柵の南端から馬防柵の内側に回り込んで蹴散らそうとした武田の騎馬隊は、連吾川を越せず、皆、溺死したと聞いています。

 武田の騎馬隊ですが、当時の設楽原は深田で、馬はもちろん、人間ですら自由に歩き回れなかったようです。
 「実際に設楽原へ行ったら・・・だった」という記事を見かけますが、圃場整理の前後で風景が一変したと聞いています。たとえば、蛇行していた連吾川の流路は直線に変えられました。豊川の流路も、今よりも西だったようです。


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