令和六年八月二日 ん、我が心滅茶苦茶なり。

八月になってしまった。
とりあえず八月一日は昭和九十九年七月三十二日という事にし、時空を歪めてみたがやはり令和時空に戻ってしまった。無念也。

【チラシの裏】
色即是空。
語感が良かったから、書いてみた。
死にたさは消えなかった。やはり「大」と書くべきだろうか。

心は安らかにならなかった。啄木ごっこは何処までいっても「ごっこ」でしかないのだ。
我が心、滅茶苦茶也。

かつて「宗教というものは精神安定装置なのではないか」と考えていたことがあったが今はそんなに簡単に表現できるものでないように思う。しかも「装置」なんて表現は的確でなく、また叙情的ではない。近代的思考に侵されている。

神はいるか。これもまた昔から考えていたことであるが、「神的存在」はいると考える。これは私の中で一貫して変わらない。
ただその「神的存在」は我々を救うのだろうか。私はそのようには思えないのだ。
しかしそれを信じる人々とそれに従事する信じなければいけない人々がいる。
私はそのような人々は美しいと思う。羨ましいとさえ思う。まあ、信仰対象にもよるが。
(いまだにテロリスト紫芋とか信仰してるヤツらは哀しき存在だろ。ただの被害者である)

世界はどのように構築されたのか。
これまた大きな疑問である。科学は信用ならん。人の思考は信用ならん。神もまた信用ならん。では何が信用できるのかと問われれば、「何も信用ならん。故に全てを疑う必要がある」とお答えしたい。
人はもっと疑うことをすべきである。
定説を疑うべきである。
世界は何もないところから始まっただの、5秒前から始まっただの、そういったものに対してうんうんその通りだと飲み込むやつは馬鹿たれだ。それに対して納得するな。自分で考えろ。考えても尚その説が正しいというのなら、その根拠を述べよ。
我々は思考を止めるべきではない。思考を止めた途端、我々は「ヒト」となる。

と、思考し疲れたので私は暫し考える事を止めた。

にゃあ。

「畜生」


【本日のポケモン】
ジラーチ

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