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世界かんがい遺産に本宿用水と北山用水が登録されました。

 11月4日、インド・ヴィシャーカパトナムで開催された第74回ICID国際執行理事会において、世界かんがい施設遺産に日本が申請した4施設の登録が決定されました。
 そのうちの2施設が静岡県長泉町の本宿用水富士宮市の北山用水です。どちらも、徳川家康にゆかりがあるとして話題になっています。

 清水町の「本宿地域を流れる本宿用水は、黄瀬川にある鮎壺の滝の上部に設置した新井堰から取水し、延長約500mの隧道と約2kmの水路で造られたかんがい施設」です。本宿村が、16世紀まで「黄瀬川の川底が深く、降水時には暴れ川となり、川水を取水することが技術的に難しく、稲作ができない地域」だったため、「1601年、徳川家康から任命された領主・興国寺城主の天野三郎兵衛康景に、隧道掘削の許可を嘆願し、当時最先端の水利土木技術である「甲州流水利法」を駆使して」1603年に完成しました。
 「本宿用水の隧道通水の水利技術や鉄のノミを使用した人力による掘削技術、行燈を使う測量技術などは、2014年世界かんがい施設遺産に登録された「67年後に造られた裾野市の「深良用水」建設時の「手本」として活かされて」います。

 富士宮市の北山用水は、「北山用水の起点は横手沢地区で芝川に取水門(大井口)を設け」、「そこから猪窪川(埋樋、排水門)、芝山地区邯鄲沢(埋樋)、潤井川(埋樋、排水門)をサイフォン方式により通過し、上井出まで流下しています。分水口は新田堀・上原用水堀・寿命寺堀など12口あり、さらに本妙寺裏(埋樋)の排水門付近で本門寺堀・山宮用水堀に分水して北山の小堀へと流下していきます。また山宮用水は堀久保・峰排水門を通過して、上蒲沢北部の分水口で蒲沢の小堀、溜之沢(掛樋)を流下し、万野用水へ」とつながりります。
 北山用水開発以前、富士山南西麓地域は、富士山の沢がほとんど涸沢で水を得ることができず、若干の湧水があるのみで雨水に頼っていました。
 徳川家康が甲斐の武田攻めの際に、北山本門寺のご本尊を陣中守護として借り受け、それにより勝利したことで、「天正10年(1582年)、徳川家康は北山本門寺の願いを受け、北山用水の開削を井出志摩守に命じました。このことから本門寺用水ともいわれ」、「その後、万野原の開墾が計画され、文化7年(1810年)に横手沢に万野用水取水口を設け、各村々の分水量を定めました。分水量を定めたのちも、しばしば水不足のために水争いが起こり」、中でも1888年(明治21年)に起こった水争いは激しく、「本流側と北山用水側の農民数千人を巻き込む紛争に発展し、県警数百人が出動するほどに至りました。翌年、白糸村・大宮町・岩松村の県議会議員の仲裁により、芝川流域村と北山用水筋で分水契約が成立し」、新たに芝川取水口に分水の基本となる川底石が設置されました。
 「それ以降芝川の洪水により、たびたび川底が流失したりし不均衡になったため、1926年(昭和2年)契約を改訂し川底石を復旧、また1955年(昭和30年)にも修復工事を行いました。1967年(昭和42年)以降、用水路はコンクリート化し、安定した水量が確保できるようになりました。

 これで県内の世界かんがい遺産は、裾野市の深良用水、三島市の源兵衛川、磐田市の寺谷用水、沼津市の香貫用水と合わせて、6施設になりました。
 なお今回登録された残りの2施設は、山形県山形市の山形五堰(やまがたごせき)と岡山県岡山市の建部井堰(たけべいせき)です。

 


 


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