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疑うことを止めた「信者」になってはいけない~それが私のファンであったとしても~ / 10連休もコツコツ書く日々 / 生き方、モノの見方考え方、高校のとき何を考えていたか~オススメコミック「ここは今から倫理です」

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【テツガク】疑うことを止めた「信者」になってはいけない~それが私のファンであったとしても~

自分のように署名原稿で執筆をし、また顔を出して講演をしながらご飯を食べている人にとって、「ファン」の存在は重要だ。ファンがいればページビューも期待できるし、ファンが書店に足を運んでくれれば書籍の売り上げも伸びると思う。

でも、個人的にはファンはあまり欲しいと思っていない。というかむしろファン思考は読者であるあなたにとって危うさでしかないと思ってもいるので、むしろオススメしたくないとさえ思っている。

ファンという言葉をあえて「信者」と言い換えてみる。その人の言葉について疑いを持たなくなり、全てを受け入れるようなファンは、ある意味その人の「信者」とほとんど変わらない。

主張の「信者」もたくさんいる。科学について、食品について、子育てのあり方について……、ある特定のアイデアを信奉し疑いを持たずそれを礼賛しているような人は「信者」以外の何ものでもない。

危険なことの第一は「疑うことの停止」だ。そして大抵の信者は疑うことを止めてしまったことにより「楽」になると同時にだまされることに気がつかなくなる。

明白なだましでなかったとしても無批判になることの危うさはやはり残る。批判的精神を持たないほうが世の中は楽になるけれど、楽になるがゆえに、変化にも応じられなくなる。


私の仕事の世界でいえば、「インデックス投資信者」や「アクティブ投資信者」がいるが、どちらも自分のポジションの優位性を主張するがゆえに相手を否定することがしばしばで、「信者」になっていることがある。これはちょっと危うさがある。

自分の信じるものが「正しい」と考え始め、同じ考え方を持つものが群れてそうでないものを「正しくない」と排除しだすと、それは全体主義の危うさがあるのだけれど、正しいと思うがゆえに自分を疑うことはまた難しくなる。「正しい」はけっこう怖い概念だ。

そして文章のテクニック的にいっても「他の何かを否定することから自分の正当性を立てるロジック」というのは簡単なのでみんながよく利用する。しかし、そういう文章は批判を先に立てるがゆえに品がいいものにはならない。文章術というと大げさだが「悪口から始まる文章」は私は基本的に使わないことにしている。もともとの同調者しか受け入れられない文章になるからだ。

むしろ、私の基本スタンスは「信じない」と「疑う」であり、そうしたことを読者にも考えて欲しいといつも思っている。

寺田寅彦(夏目漱石の弟子で東大の物理学教授になる)のエッセイには「知と疑い」というものがあって、「疑いは知の基である。よく疑う者はよく知る人である。」というフレーズがある。私はこのフレーズが好きだ。

青空文庫「知と疑い」 

疑いの先に、答えが見つかるかもしれない。そしてそのためのちょっとした視点やツールを提供したい。結果として疑った後に何も見つからないかもしれないが、それでも疑わないことよりベターのはずだ。

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