四字熟話【狡兎三窟】(こうとうさんくつ)
悪い兎は、隠れる穴を三つ持っており、いざという時には三つのうちどれかに逃げ込んで助かる。身を守るのがうまいこと。
怜子はまるで、親友に久しぶりに会ったような表情をして、これで2枚目となる新しい金色の免許書を手に取った。前の免許書より写真が弱冠若返っているように感じた。
「35万ですよね」
鼻にかかる声で、多少とも不安をかこちながら確認した。
「いいですよ30万で、もうこれでこの商売も最後なんで、まけときますよ」
若い男は、感情を黒縁メガネに閉じこめるようにして、その肩まであるストレートな黒髪を揺らしながら、あっさりとディスカウントしてくれた。
「えっ!? 最後って、辞めるの?」
驚いた怜子が聞き返した。
「大丈夫ですよ、後任はいますから」
と男はそう言いながら事務所の奥を親指を立てて指した。
怜子がその先に視線を送ると、丸刈りに金縁メガネをした男が、机に向かって作業をしていた。怜子にはその作業が自動車免許書の偽造であることは解っている。
「あの人、中国人の張さん」
男の簡単な紹介だけで怜子は安心した、それだけで充分だった。
怜子は新しい免許書を受け取ると事務所を後にした。そしてそのまま同じ歌舞伎町にある次のキャバクラの面接へと向かったのだった。
怜子の実年齢は50歳である。
しかし、肌の張りやくびれた細い腰つき、そしてスラッとした美脚からは、到底その年齢には見えず、新しく偽造した免許書に印字されている25歳そのものだった。
それはキャバクラの入店面接もなんなくスルーするほどで、もはや化け物の域かもしれない。ちなみに年齢以外の記述も勿論デタラメである。だが怜子とって、当然ながら重要なポイントはその年齢だった。
最近まで同棲し、夜昼となくベッドを共にした24歳のイタリアンシェフにも、そのショッキングな嘘は、別れる最後までバレなかったというから本物である。
「オレの女は見かけよりはしっかりした母親みたなところがあるんだよな」
なんて彼も周囲に、間抜けな自慢をしていたのかもしれない。つくづく男はバカである。
怜子も男はバカだと思っている。そう思わないことにはこんな大胆不敵なことは出来ないはずである。
断っておくが、いわゆる整形の類は一切行っていない。
まるで光速で飛ぶロケットに乗って、宇宙旅行でもして返ってきたみたいな若さだった。実際ふわふわと地に足が着いていない生活感ゼロな月面生活者のようでもある。
そのためか、これまで勤めていた店での源氏名は、「月子」だったり、「うさぎ」だったりしていた。当然次の店でも同じような源氏名を名乗るつもりでいる。
怜子は面接に受かる自信はあった。別に受からなければ六本木でも赤坂でも錦糸町でもどこか勤められると慢心していた。
またいざとなれば、その年齢を明かして、最近出始めてきた熟女パブにでもいっそ行ってもいいと思っていた。その方がより自然であり、むしろ熟女人気のこのご時世なら稼げるかも。などと考えていた。
そして最後の最後は、あのイタリアンシェフの元彼のところへ転がり込んでもいいと思っていた。
その時は年齢詐称を謝り「実はわたし38歳だったの、ゴメンナサイ」と再び罪な嘘を重ねて、重ねついでにもう一度やり直そうなどと、その甘い鼻声を彼の耳元へ優しく投げかける。
などとつらつらと三つの逃げ穴を考えながら歩いていると、面接に臨む店がテナントとして入るビルの前までやって来た。
玄関脇には花屋があった。ショーケースに行儀良く納められた毒々しいまでに赤い薔薇から、まるで悪女の付ける香水のような淫靡な香りが漂ってくる。玲子はそれを鼻腔を広げて吸い込むと、瞳孔を大きくし瞳をきらきらさせ、口角も上げ更に若返っていった。
改めて先程のゴールドカードを取り出した。若々しい写真、バランス良く配置された文字、それを引き立てる金色のライン。完璧である。次の書き換えまではあと5年。
50年間の人生において一番心の安寧を保障する唯一無二のお守りだと怜子は改めて思ったのだった。
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