四字熟話【暗中模索】(あんちゅうもさく)

暗闇の中で手探りで探すこと。転じて手がかりの無いままあれこれと探し求めること。
 
 
「もういいよおまえ、今日で終わりにしようよ、うんざりなんだよなあそうしようよ。もう疲れたんだよ!」
 今夜の夫はこれまでとは違っていた。投げヤリのヤリがいつもより遠くへと投げられていた。マジって感じである。
「よう云うな、どっちの台詞や!……ずっーと我慢しとったんはこっちやアホッ! 変態!」
 いつも関西弁でまくし立てる妻も、怒りの砲丸を同じように遠くへと投げながら、いつもとは違う夫の真剣な様子に今夜は特別だと感じていた。「離婚」の文字が重量感のある鉛のような鈍い光沢を発しながら3Dとなって、頭の中に浮かんでいたのだ。
 5年の同棲を経て結婚し、早2年が過ぎようとしていた20XX年の正月。夫の超多機能携帯のホログラフ受信映像を、リビングの空間に映し出したまま2人は言い争っていた。
 ホログラフに映し出されているのは妻にとっては見知らぬ30代半ばといった女だった。どこかのセレブといった趣で、上品で奥ゆかしさを湛えた、妻とは真逆のキャラクター。そのマダムが夫に向かってリフレインでしゃべっている。
「ケンちゃん今度会えるのはいつですか? 今度しゃぶるときはお利口さんだから優しく、しゃぶってね…」
 夫の趣味は赤ちゃんプレイだった。当然妻もそのことは承知している。だがこんな喧嘩のときには、日頃受け止めているはずの夫の性癖も、我慢の秤についでに乗せられ、不満の分銅に加重されるのだった。
「もう離婚しよう。もうイヤッ! こんな生活白け鳥が飛んじゃうよ」
 夫がとうとうその昭和的2文字を口からはき出した。
「自分だけが我慢してるみたいなこと言うて、エイカッコせんといて、どうでもええけどあんたは小松政夫か!」
 そう言う妻にも実は性癖があった。スパルタ教育ママプレイ好きだった。赤ちゃんとママなのだから上手く行きそうなものだが、今回の夫婦喧嘩の原因が夫の浮気なだけに、なかなか納まりそうにはない。しかもただの浮気じゃない。他に女を求めたのでは無く、ママを求めたという、妻が演じるママの立場を踏みにじる行為なだけに複雑で根が深いのである。変態には変態のプライドがあるのだった。
 妻はとっさにテーブルに置いてあるその夫の携帯を、見事なコントロールで部屋の隅にある、大人1人が十分横になれる程に大きなまるで棺桶のような、もしくはイリュージョンでマジシャンが水中脱出に使うような大きな水槽に投げ入れた。
 携帯はホログラフの光を放ちながら美しい光の線を描いていく。「チャポンッ」
 防水機能のあるそれは水槽の底で、熟女の映像を引き続き水槽内に映し出している。いつものグッピーもなにやら今まで以上に熱帯魚らしく見え始めた。幻想的な間接照明のように水槽内を美しく彩っていくホログラフ。だがさっきの空気中とは違い、水の中で複雑にも屈折をしたマダムの顔はまるで内面の醜さをさらけ出しているように歪んでいた。夫はそれを見て一気に冷めていった。そのうち自動消灯でホログラフも消えると、見る間にただの携帯に戻っていた。
 とその瞬間である。床が揺れ始めた。地震である。
 次第に揺れは大きくなりながら、テーブルや家具をギシギシと音をさせ揺らしていった。やがて水槽のガラスも持ちこたえられずに割れ、中の水を一気に床へとはき出し、2人を水浸しにした。
 どのぐらい揺れていただろうか、ひとしきり揺れると揺れは治まった。次の瞬間、室内の照明は落ちて真っ暗となった。停電である。
「あっどうしよう。とうとう来てもうたわ!」
 妻のさっきまでの勢いは完全に消え、洪水に呑まれた、ノアの箱船に乗り損ねた気弱な不運なウサギと化していた。
「どこにいるのママッ! とうとうあの予言が、世界の終わりだよっ!」
 夫は完全に赤ちゃんとなっていた。
 窓から差し込む街の明かりも消え、完全暗転となった室内で、びしょ濡れになった2人は、手探りしながらお互いを探し始めた。2人にとってその時間は途方も無く長かった。そしてその悠久の時間の中で、お互いがそれぞれ本当に必要な存在なのだと、改めて思ったのだった。このまま地球が終わろうとも、一緒に運命を共にしようと思った。
 さっきまでの抗争のエネルギーは地震のエネルギーに飲み込まれてしまったかのようである。2人だけのお祭りは地球規模のお祭りに溶け込んでしまったわけである。
「どこににいるの?」
 夫は恐る恐るハイハイしながら寒さでふるえる右手を伸ばして妻を探した。
「ここやで!」
 妻の声を間近に聞いたその瞬間。夫の指先が妻の指先に触れた。お互いを認めると、迷うことなく抱き合う2人。
「坊や大丈夫か!」「ママも怪我しなかった」
 2人は出会って以来、こんなにも固く抱き合ったことが無いのではと思えるほどに抱き合った。まるで一つになろうとするようにである。静寂の中2人は抱き合っていた。
何分たったのだろうか、それとも何十分だったのかは解らないが、気がつけば街の明かりが戻っていた。外の光が薄く差し込む中、妻の涙を認めた夫は、自分も涙していることに気がついた。胸が締め付けられやがて嗚咽する夫。
 気がつけばいつの間にか部屋の明かりも点き、ずぶ濡れであるという以外は、いつもの日常へと戻っていた。
 夫は心の底から願った。もし神という存在があるとするなら、こんな変態な2人だけど、「どうかひとつ、長~い目で見て下さい」と。
 
 

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