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シティヘブンはシティヘルに改名しろ&オフ会報告

またもシティヘブンに余計な機能が登場。
その名も「オキニトーク」だ。お嬢とシティヘブンユーザーがメッセージでやり取りできるというクソいらない機能。(ソープはなぜか対象外)
写メ日記を作った時点でもう重罪だというのに、なんでこう働いているお嬢の負担を増やすことしかできないゴミなんだろう。もう何百回も言ってるけど余計なことしなくていいから早くスクショ禁止できるようにしろよ、そっちが先だろ!!!!!!!シティヘブンユーザーが大事なのもわかるけど、働いてるのはお嬢なんだからな!!お前らのせいで出来たクソみたいなシステムのせいで迷惑になるのはお嬢なんだからな!!何がシティヘブンだよこっちからしたらシティヘルだわ!クソ野郎!!!!

でもねー、働いてるお嬢もお嬢だなーって思うこともあって。
年々写メ日記が過激派になってきてるような気がする。というか、過激なの書いてればアクセスが上がると思ってそれがどんどん過激になっていってんだよね。まあアクセスあがるんだけどさ。まあまんことおっぱいあげりゃ誰でも見るわな。例えばフェラ動画上げたりさ、デリヘルなのに挿入してるとこの動画上げたりとかさ、まんこモザイクなしで載せたりさ、乳首堂々と晒すしさ、無料でおかず提供して、それでアクセスあげて、それで良いのだろうか?
風俗嬢として、それでいいんだろうか?
どんなフェラするかも、どんなセックスするかも、どんなまんこなのかも、どんな乳首なのかも会ってからのお楽しみであるべきだと思うし、もっと自分の裸やプレイに価値を付けて欲しいなあと思う。無料で提供するべきじゃない。アクセスのために、有名になりたいがために、写メ日記を過激にするのは営業方法は、違うと思う。ちゃんと頭のいい子は、他の方法でマメに丁寧にtwitterや写メ日記でちゃんと知名度上げているもの。
AV女優でさえ、twitterでは下着姿あげるぐらいがギリだというのに。なんで風俗嬢がそこまでスケベを晒すんだよ。って感じである。

twitterもそうだ。デリヘルなのに本番することを平気で公言したり平気で生ですることを公言してる頭のネジがちょっとどっかいってる風俗嬢がいたりする。
もうね、あなたデリヘル嬢だよね?と聞きたくなってしまう。
デリヘル嬢って本番しないで素股やフェラや手コキで満足させるのが仕事だよね。それを放棄して「本番できます」って公言するなんて「私は通常プレイじゃ満足させれない女です」って言ってるようなもんよ?デリヘルで働いてるなら、正々堂々とルールの範囲内でプレイしろよ。と私は思う。
そもそも本番はソープでしか出来ないの。ソープじゃないと出来ないじゃなきゃダメなの。じゃないと見境なくなっちゃうじゃん。デリヘルとソープってちゃんとその店のサービスってもんがあるんだから、それを乱すような女にデリヘルなんてやって欲しくない、と思う。それに群がる男も普通にきもい。

もっと女の子には自分に、自分の身体に、サービスに価値を付けて働いて欲しいなって古株ババアは常々思う。はい。


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先週行われたオフ会。投票の時点で女の子からの投票が13票もあったというのに誰からもDMがこなくて若干女性不信になりかけたという苦いエピソードもw
で、結局女性の参加者はゼロで、男性参加者は4人。前回オフ会が中止になった時に内輪だけで集まろうってなった人が来てくれた。もうお馴染みの、いつものメンバーである。あいも変わらず応援し続けてくれる皆に会えて、嬉しかったし、嬉しいから酒も進んで酔っ払っちゃったので何を話したかは覚えていない。「オフ会の様子をレポして欲しい」と言ってくれた方には申し訳ないが、本当に覚えてないのである。ごめんw

でも「カラオケに行きたい!」と言って、二次会はカラオケに行ったのは覚えている。多分ハロプロばっかり歌ってたんじゃないかなw写真はいっぱいとってたので見返すと、皆が楽しそうな顔してたので多分みんな楽しんでくれたと思う。多分。んで、気づいたら終電の時間で気づいたら電車に揺られていた、という。

オフ会やるよ!といったら必ず来てくれるこのメンバーたちには本当に感謝している。いつも楽しい時間をありがとう!応援してくれてありがとう!みんながずっと幸せに生きてけることを願ってる!アイラブユー!


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6月23日は沖縄慰霊の日だった。その日は朝から沖縄戦のドキュメンタリーを見てひめゆりの塔に行ったことを思いだしていた。私が19歳の時だ。「沖縄に行くなら、絶対に行きたい」と同行したシャブ中にお願いして連れて行ってもらった。でも中に入って石碑や壕を見ると、心臓がドキリとしたのを覚えている。資料館に入って色んな掲示物を見ながら、私は自分の心臓がえぐられるような気分になった。私と大して年齢の変わらない若い女の子たちが、戦争によって命を落とした事実を目の前で実感したのだ。ショックと、悲しみと、で涙が止まらなかった。何か重たいものが、ドシリと肩に乗ったような気分でもあった。

ひめゆりの塔を後にした後、シャブ中と沖縄そばを食べに店に入ったが、私はどうしても箸が進まない。「死んだ人の分まで俺らは生きて、食べて、ちゃんと生きなきゃいけないんだよ」とシャブ中は言ったが、どうしても食事をとる気分にはなれなかった。他にも沖縄に残されている戦争の跡地に行く予定だったが「これ以上は無理だ、受け止めきれない」と私が言って、その予定は中止した。日本人として、沖縄で起きたことをすべてこの目で見たいと決めた沖縄旅行だったけど、もうひめゆりだけで私の心のキャパはいっぱいになってしまったのだ。これ以上を見て、受け止める余力もない。ずっと暗い顔をしている私にシャブ中は一生懸命笑わせようと冗談を言ってくれたが、それにクスリとも笑うことが出来ず頭の中で犠牲になった方たちの顔写真がこびりついて離れなかった。

次の日は「綺麗なところへ行こう」といったシャブ中に連れられ美ら海水族館に行って、美しい沖縄の海を目にした。悲しい歴史もあるこの島で、こんな美しい景色もあるんだなあと思った。

あの時は目を背けてしまったけど、今度沖縄に行く機会があったら、今度はきちんと行く予定だったはずの場所へ必ず訪れてみようと思っている。

そういえば私の父方の祖母は、戦争を生き抜いた人である。温厚で天然な性格で、ご飯食べに行ったりしてそこのご飯が美味しくないと「ここの店マズいねえ」と大きい声で言っちゃうような祖母だ。SMAPの草彅君のことも、何度教えても「草刈君」と呼ぶ祖母だった。父とともに行方をくらましてしまったので、今はどうしているかわからない。同居している時点で80歳を超えていたので、もしかしたらもうこの世にはいないかもしれない。

変わった祖母だったけど、私にいつも戦時中の話をしてくれた。雑司ヶ谷で生まれた祖母は幼少期を池袋で過ごし、第二次世界大戦が始まって空襲が酷くなると一人で群馬に疎開をしていたらしい。

私がサツマイモやジャガイモを好んで食べているのを見るといつも「よくそんなもの食べれるね。あたしゃ芋はもう一生食いたくないよ」と言うのが口癖だった。戦時中は本当に芋しか食えない状況だったらしい。毎日毎日来る日も来る日も芋だったので、もう一生分の芋を食ったと言っていた。

怒ることなどないくらい温厚な祖母だったけど、お茶碗に米粒残すことだけは許さなかった。「ダメよ、綺麗に食べなきゃ。食べれない時代の人だっていたんだから」と何度も言った。

祖母が疎開から帰って来たとき、池袋の駅前は死体の山だったといっていた。そして現在のサンシャインがあるあたりに戦犯の刑務所があったんだよ、池袋の街は闇市で栄えていたんだよ、ということも教えてくれた。

闇米を買うために母と列車に乗り込んで、遠くまで米を手に入れるまで出かけた、とも言っていた。白米を久しぶりに食べた時の感動は、今でも忘れられないという。

戦地に行った兄弟を何人か亡くしたことも、私に話してくれた。「悲しくなかったの?」と聞くと「当時はそれが普通だったから」と祖母は言った。兄弟が死んで、それが普通だったからと言う祖母の言葉は、私には衝撃だった。私がもし、戦争で弟を亡くしたら「それが普通だったから」では済ませられないだろう。

終戦記念日が近づくと毎年やっていた終戦記念のテレビを私が見るたびに「辞めて頂戴よ、嫌なことを思いだすから」と祖母はテレビを消す。近くで花火大会がある時も、「花火は空襲に音が似ているから嫌だ」と耳を塞いでいた。

祖母は色々話してくれたけど、きっと話せないような体験も沢山したんだろうな、と今になって思う。

でもそんな激動の昭和を生きてきた祖母は強かった。80を超えているのに杖もつかず自分の足でしっかりと歩き、家には夕方まで帰って来ず、毎日巣鴨でお友達とカラオケしたりお茶して遊びに出かけているような人だった。だから今も多分ピンピンして生きてると思う。多分ね。

「この食べ物が好き」と言うと、そればっかり出す祖母。朝っぱら二日酔いだというのに「あーちゃんこれ好きでしょ」と言ってしめ鯖を出してくるという天然さの持ち主で、何度も私の度肝を抜いて笑わせてくれるような人だった。父は「かかあはAB型だから、変わってんだ」と言っていたが、私はもう持って生まれた天性の天然だと思っていた。未だに祖母を超える天然にはあったことがない。

私がシャブ中だった時も「そんなに痩せて、戦後の人間より細いよ。食べなきゃだめよ」と私の腕を握りながら祖母は言った。シャブ中だということにはもちろん気付いてないので「どこか悪いんじゃないか、ちゃんと病院行かなきゃ」と心配をしてくれた。

きっと元気にしてるだろう、たまに思い出してはそう思うようにしている。例え亡くなってたとしても、祖母は人生楽しんで生きてたので私は悲しいとは思わない。きっとあの世でも兄弟とも再会して楽しくやっているでしょう。

ね、ばあちゃん。

産まれた時からあなたにそっくりと言われた私は、今母方の祖母に似てきたと言われるようになったよ。色々あるけど、まあ元気にやってます。この世にいてもあの世にいても、ばあちゃんが笑ってるといいな。元気でね。


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