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うまい棒はクレーンを躱して

近所、と言うほど近所でもない、自宅からバスに数十分ほど揺られたところで到着できるくらいの位置に、行き慣れた商店街がある。

ゲームセンターも多いので、その商店街に居を構えるゲーム筐体の台数は夥しい。その中でも、いわゆるクレーンゲーム筐体の数は特に多いように思う。

クレーンゲーム。言わずと知れた代表的なアーケードゲームである。箱状の筐体、その内部の天井に吊り下がっているクレーンを操作し、用意されている景品を獲得する。

存在自体を知ったのはつい最近なのだが、その商店街の中に、明らかに異質なクレーンゲームが一台だけ存在している。

そのクレーンゲームの景品は、あの国民的スナック菓子、

うまい棒である。

数十本がまとめて梱包されているといったような豪勢なものではなく、完全に一本ずつの、個体のうまい棒なのだ。さらに、それらをサルベージするクレーンの握力が貧弱を極めていたりなど、うまい棒を手に入れるのはもはや不可能に近い。

そんなものが一台のクレーンゲームとして平然と鎮座しているのだ。ふざけているのか?

と思ってしまうところなのだが、なんとこのクレーンゲーム、無料なのである。本当に完全な無料なので、何億回プレイしようが一銭も払わなくてよい。

支払われるリターンはうまい棒一本、そのためにこちらが支払うのは膨大な労力と時間(連続でプレイし続けても一本取るのに全然30~60分以上かかったりする)である。根気というよりは、うまい棒一本に対する執念が試される。

先日、ふたりの友人と出かける機会があった。絶望的に暇なうえにお金も払いたくないという愚かな三人の足は、自然とそれを目指して歩き出していた。無料うまい棒クレーンゲームである。そこで聞いた話で初めてその筐体の存在を知った自分は、まさに興味津々といった状態だった。

「おお、これが無料のクレーンゲームか」と軽く目を輝かせていたのも束の間、際限なくプレイを重ねていくうちに、その異常な難易度、そうまでして得るリターンが明らかにそれに見合わないことを思い知って興醒めしていく、という一連の流れを数分で辿ることになるのはもはや必然であった。

しかし、我々三人は確かに数分で興醒めしたものの、その場のテンションも手伝って、そこから「絶対に取ってやるぞ(他にやることもないし)」という思考に至ったのである。

はっきり覚えてはいないが、一時間くらいはそこにいたように思う。初めてうまい棒を取ったときの、それまでのすべての経緯が「報われた」というような、筆舌に尽くし難い達成感をよく覚えている。我々は持てる知恵を集め、協力を重ね、三本ものうまい棒を手に入れたのだ。実際、あの環境であのクレーンを用いて三本ものうまい棒を獲得するというのは本当に至難の業であった。

クレーンゲームを離れ、友人と笑いながら勝利のうまい棒を齧って歩いているとき、ふと思ったことがあった。

単価にして10円。「安価な食べ物」の象徴であり、その安価性にアイデンティティを帰属させていると言っても過言ではない。うまい棒が数多のスナック菓子の中でも群を抜いた知名度を持っている理由は確実に、その10円という値段にあるだろう。

そこまでチープを極めた食べ物に、実際に今、自分はこれほどの価値を感じている。もしかすると、これはすごいことなのではないか?

一本のうまい棒を得るために何十分も費やし、知恵を絞って、根気強くプレイを重ねたという事実。その「経緯」によって、単価10円のうまい棒がこれだけ価値を増している。コンビニのレジで10円玉を一枚渡して普通に手に入れたうまい棒とは、まるで重みが違う。

「安価なもの」の象徴・代表として用意されたうまい棒、それを手に入れるまでの茨の道として用意された筐体、そしてうまい棒に辿り着いた際の達成感。経緯がもたらす新たな価値。あのクレーンゲームはもはや、それを発生させるための思考実験としても成立しているのではないか、とさえ感じた。

「経緯」による、実感される価値の変動。目を瞠るものがあるぞ、といったようなことをぼんやり考えながら、めんたい味のうまい棒を囓っていた記憶がある。




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