バターを買ってかじりながら歩いてみる
2021年3月26日、快晴。
まだ冬のつもりでなんとなく過ごしていたが、もう春が来ていたらしい。
四月の気配を目前にして昼下がりは暖かく、その空は清々しいほどに晴れ渡っている。
春が来ている。
中学生の頃だっただろうか。
「コンビニとかでバターを買って、片手に持ったそれをカジュアルにかじって食べながら歩きたい」という願いを抱いたことがある。
バターが好きなのでそのまま食べてみたい、というだけの単純な好奇心が少しの屈折と共に派生した結果だった。そして驚いたことに、夢は未だ、その光量を失っていなかった。
昼を少し過ぎた頃に起きた。仰向けのまま、起き抜けの倦怠感と向き合う。窓の向こうの空はかなり晴れているし、暖かそうだし、遊ぶ子供の声も聞こえてくる気がする。
気がするだけでそんな声は一切聞こえていないのだが、しかし外では見事に春という季節が顕現しているようだった。自分は経験上、こういう穏やかな日に散歩をするとすごくいいということを知っている。
上体を起こす。
こんな日には、あの夢を叶えよう。
手元で好きな音楽を再生して、歩き慣れた歩道を行く。
思えばこの住宅街にも長く住んでいる。平日だからか車の通りも少なく歩きやすい。
春だから桜が咲いているというそれだけの光景に狼狽してしまう。
歳を重ねるにつれてか時間が経つのも早く感じるようになり、巡る季節のでたらめな速度にずっと自分はついていけなくて、未だに昨日まで夏だったような気がしている。昨日まで、もう夏であるということに狼狽していたような気がしている。
バターを買いに行くと思うだろうか。
いますれ違った、犬を散歩している妙齢の女性が、ランニングに勤しむ中年男性が、自転車を立って漕ぐ中学生が、公園で遊ぶ子供たちが、この男がこれからコンビニへバターを買いに行くと思うだろうか。
バターをかじって歩くためにコンビニへ向かっていると、思うだろうか。
この一帯は坂道が多い。知らない母子が一緒に後ろ向きになりながら坂を登っているのが見えた。和やかな日である。
こんな日には路傍に打ち捨てられた週刊ワークワークの表紙とも目が合うというものだ。
散々苦労してきたが、そうしてありつくことのできたこの日々を愛しく思っている。不安と名付けられたその瘴気も今やどこかへ消えて、多幸感だけが漠然と生活を縁取っている。
振り返ればいろいろなことがあって、それらすべて必要な苦悶だった、などと無理に肯定するつもりもないが、この充足感にあっては何かを否定する気にもなってこない。
小学生の時分に、ゲームセンターになるらしいとか、ラブホテルになるらしいとか、老人ホームになるらしいとか、そういうもっともらしい噂が定期的に話題となった謎の廃墟は、結局老人ホームになってしまった。
あまり見ないブランドのポテトチップスも投げ捨てられている。
ローソンへ着いた。
ここで自分はバターを買う。
何を隠そう、バターを買うのである。
マスクを つけてネとのことだ。自分はマスクをつけていたので入店できた。
バターを探す。コンビニでバターを買い求めるのが初めてなので少し手間取った。
今日のおやつは♫
なにかにゃ~?
もう食べられないよ
むにゃむにゃ・・・
意図がよくわからないポップがトイレの壁に掲示されていたが、構っている暇はない。
また、ドアに「オーナーのツイッタ~」なるものも貼り出されていた。
コンビニは お休みも時短すらできない…
コンビニは ライフラインという使命があるから…
だったら… せめて… 防衛させてくれ…
私達が コロナになれば、困るのはお客さん。
みんなの為です。
店主の個人的な不満を「オーナーのツイッタ~」と称してコンビニに掲示する心理はよくわからないが、苦労しているのは伝わってくる。大変な時期だと思うけどがんばってほしい。
そもそもバターが売ってないんじゃないかと思って少し慌てたが、見つけた。
アイスを食べて歩くようにバターを食べて歩きたいと願ってはいたが、その感覚で買うにしてはかなりちゃんと高い。思わずたじろいだ。コンビニのバターを目の前にたじろぐ日が来るとは思っていなかった。
隣に百円台で売られている別ブランドの小さいバターに目が移りそうになるが、これを自制した。そうだ。これまでに思い描いたビジョンにおいてバターを食べて歩く自分がその片手に持っていたのはいつも、雪印 北海道バターであった。
雪印 北海道バターという、自宅の冷蔵庫にだけ鎮座しているはずのその重量感を片手間に弄んでやりたいという気持ちが、まるで何かへの勝利や革命を希求するかのように、そこにはあった。
それだけのことが、444円も出してまで雪印 北海道バターに拘泥する理由としては十分に思えた。
店を出た自分の手に持たれていたのは、確かにバターであった。
ああ。バターを持っている。
ひとつのバターだけを片手に持って、何の目的もなく歩いている。
見てくれ。
バター単品を片手に歩道を闊歩する男の姿を見てくれ。
そしてこう感嘆してくれ。
「ああ、あの男はバターを、あまつさえ雪印 北海道バターを、その手に携えて、一歩、また一歩、その地面を踏み締めて進む」と。
親しい友人にも、家族にも、恋人にも、かつての恩師にも、皆に教えてまわってほしい。
この光景をいくらかの文章にしたためて、その手紙を故郷へよこしてあげてほしい。
それにしても、やはり「雪印 北海道バターを路上で片手に持っている」という状況の異質さに、その違和感に脳が揺れる。
箱から出されたそれはあまりにもちゃんとしたバターの重量感を改めて実感させ、自分は思わず怯む。
だが同時に、どこか高揚している自分がいた。
もう引き返すことはできない。
終わることはできない。
この戦いはまだ、始まってすらいない。
覚悟はできている。
夢よ。
税込444円の、その夢よ。
2021年3月26日、快晴。
よく晴れた日であった。
よく知る味だった。
門歯が拐ってきたその塊は、脂質と塩分だけで構成されていた。もとより自分は食べ物のおいしさを判定する評価軸を「油分」「塩分」の二軸しか持っていない。
うまい。
バターをかじりながら歩いているなあ、という実感は不思議と薄かった。もしかするとそれは、バターをかじりながら歩くその姿を他者に捕捉され「あの人はバターをかじりながら歩いている」と理解された、そのときに初めて結実する感覚だったのかもしれない。
ならばこのバターは秘密にしよう。
喧伝してまわるわけでもなく、かといってひた隠すでもなく、ただ自然にそこにあって、この路地で自分と向き合って対話を始める、バターはそんな形の、ひとつの秘密にしてしまおう。
それは何かに対する礼儀として適っているような気がした。
広い公園にもバターは現れた。子供が遊ぶのを遠目にバターをかじってみる。
単体で食べ続けてみると結構しょっぱくて、当然、明確に胸焼けの気配も感じられる。
ベンチを立つ。
気のせいかもしれないが、人とすれ違うときにはたまに視線を感じた。
大丈夫だ。何も恐れる必要はない。
さっきの女性がこちらに対して何か縁起でもない印象を抱いているとしても、彼女はバターをかじりながら歩いたことがないだろう。
世界はとても簡単だ。
バターをかじりながら歩いたことのある人間と、バターをかじりながら歩いたことのない人間が、それぞれ暮らすその場所が、いつしか世界と名付けられていたのだ。
おそらく三分の一も減っていないが、食べるのをやめた。普通に胸焼けでやばくなりそうな予感がしたからだ。あとそういえば今日本当に何も食べてない。
ウゲ、という空腹感はそのままに、一方で胸は油で焼けつつあるという奇天烈な状態に、その身体は陥っていた。そして多分、この食べ方は体によくない。
帰路を辿る。気持ちは満足していた。
すばらしい日々を過ごしている。
我々はすばらしい日々に辿り着くことができる。
投げ捨てられていたよくわからないカチューシャも、まるでこの時間を祝福してくれているかのように映る。
今日、自分はバターを買ってかじりながら歩いた。
結局そのあと体調が明確にヘンテコになってしまったのでおそらくもう二度とやらないが、実行してよかったと思っている。
陽気のもとにひとつの夢は果たされ、とめどなく生活は続き、自分はこのすばらしき日々を今一度嬉しく思う。
春が来ている。
そんなこんなで、東京で暮らし始めました。
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